仙台仏青ボランティアサポーターより ボランティアってなんだ。

東日本大震災後、仙台仏青は各地へBOP活動、炊き出し、念珠作りなど様々な活動をしてきた。また全国からこられるボランティアの対応や、放射能問題から子供達を救おうなど次から次へと活動が「肥大」してきている。当時に「今の現状」を伝えるために全国各地へ活動報告を行っている。

 彼らは20代~30代妻帯者も多く小さな子供もいる。またお寺の仕事もある。震災後数ヶ月は「使命感」で動けただろう。現実を見れば「震災後」各メンバーは被災地のど真ん中にいる。本当は「助けられる」位置でもある。でも彼らは動き続けた。仏門に入った彼らは知らぬうちに「利他性」に翻弄されたのかも知れない。

震災後一年が経った。肉体的にも精神的にも当然のことから「疲れが」出てくる。
今後いつまで続くか解らない「支援活動」いつまで続ければいいんだ。口には出さないが、皆の「眼」は疲れているのは明らかだ。

全国から考えられない「支援金」これも一つのプレッシャーになっているのでは無いのか、皆様が送られた大切なお金。純粋に彼らは「受け止め」皆様の「善意」を届けようと必死に頑張り続けている。

今、テレビ・新聞等で流されているように支援金も活動も必要です。
でも仏青のメンバーは被災地に行き、活動して帰る場所「自宅は被災地」です。

新たな支援活動も必要ですが、自ずと彼らにのし掛かってきます。恐らく彼らは純粋に引き受けるでしょう。

震災後、一年が過ぎ私が仏青のメンバーに会って思ったこと。 ボランティアって何だ。















愛知のM.Mさんより

 このたびの東日本大震災で亡くなられた方々に深い哀悼の意を表すとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

 私は、愛知県某市に住む真宗大谷派のお寺の寺族であり、日頃は地方公務員として働いている者です。3月11日、私は職場の4階にいて、非常に大きくゆっくりとした揺れを感じました。すぐに携帯電話で調べ、それが東北地方の地震であることを知り、ただごとでは済まないぞ、と感じたことを今でも覚えています。そして、当日の夕方以降、毎日、テレビや新聞で見ることになった衝撃的な映像や写真。津波で押し流される多くの家や車。焼け野原と化した港町。陸上に残された巨大な船。どれも「衝撃的」という言葉では表現できないほどの惨劇でした。ただ正直なところ、愛知県からはとても遠く、ちょうど直前に起きたニュージーランドの地震同様、テレビの中の映像としてどこかリアルに感じていないところもあったんだと思います。

 震災から8か月、仕事が忙しかったこともありボランティア活動にも参加せず、日々暮らしてきていましたが、知人が現地でボランティア活動をしたことを聞き、また来年度のことを考える時期になったことで、どうしても現地が見に行きたくなりました。

 仙台には10年来の友人がいます。また岩手県山田町には9年前に旅行したときにホタテをいっぱいくれたおじさんがいます。仙台の友達は震災直後に安否確認できていましたが、山田町のおじさんはそのときにお世話になったきりで名前もうる覚え。安否の確認もしようがありませんでした。無事なのか急に知りたくなりました。

 11月初旬に少しだけ休みが取れたため、真宗大谷派の現地復興支援センターと仙台仏青に連絡し、宿泊場所を提供していただくとともに、お手伝いをさせていただけることになりました。(面識も全くない私に何から何までありがとうございました。)そして、太平洋フェリーを予約し、かなり強引に、勢いだけで東北まで行きました。

 初日に、仙台の友達に震災後初めて会い、亡くなった方々のことを思うと申し訳ないですが、本当に生きていてくれて良かったと心の底から思いました。生きていれば、こうして会える。本当にいのちのありがたさを感じました。

 翌日から2日間、仙台仏青の方に、沿岸部の石巻市・女川町・南三陸町・気仙沼市に連れていってもらいました。石巻市立門脇小学校、女川漁港、牡鹿半島、南三陸町防災対策庁舎、清水浜駅、気仙沼漁港などなど。すでに8か月近く経過しているにもかかわらず、どこもテレビや雑誌で見た光景がそのままありました。今までリアルでなかったものが、目で見る360度の光景、耳で聞く音、鼻で感じる匂い、肌で感じる感覚など、五感で感じることでとてもリアルになりました。(愛知県に戻ってきてから、映像や写真を見るとそのときのことが脳裏に浮かんできます。)仮設住宅や個人宅などにお米や毛布などを届けるお手伝いをさせていただくなかで、東北の人の我慢強さや感謝の心の深さも感じました。そして、震災直後から長期にわたりずっと復旧復興のお手伝いをしていらっしゃる仙台仏青の方々の尊い活動に触れ、自分の情けなさも感じました。

 この旅の道中、「頑張って」とも「頑張りましょう」とも一言も言えませんでした。東北の方たちは厳しい現実の中、目の前の一日一日をみんな必死になって生きていらっしゃいました。でも自分はどうなのだろうか。それほどまでに必死に生きてはいません。

 滞在中泊めていただいていた部屋にあった掛軸に、こう書かれていました。

「虚往実帰」。「虚(きょ)にして往(ゆ)き、実(み)ちて帰(かえ)る」と読むそうです。意味としては、行くときは何も分からずに空っぽの心で行って、帰るときには充実して、十分に満足しているということ。

きっと空っぽの心ではなかったですが、映像や写真では感じられないものを感じることができ、自分の今後の人生にとって有益なことばかりで、非常に充実しました。しかし、東北にこれからも住み続ける方に対しては、ほとんど何もできませんでした。これから愛知に帰り、自分に何ができるのだろう、そう考えていました。

 考えている最中、11月29日に真宗本廟にて「福島を生きる」というテーマで仙台教区の方々がシンポジウムを開催するという情報を得、仕事を休んで聞きに行きました。私が見た宮城県の現状以上にもっと深刻な状況であることが分かりました。本当に絶句しました。

 これらの経験を踏まえ、事実を多くの方々に知ってもらうため、自坊の報恩講のときに、撮影した写真を本堂内に掲示するとともに、その写真や入手したDVDなどを用い、約1時間にわたり、お話しをさせていただきました。「3・11に起きたこと、五感で感じた8か月後の宮城県沿岸部の様子、福島の今・そしてこれから」。皆さん熱心に聞いてくださいました。「自分たちにできること。それは、東北を忘れないこと。そして、東北で起きたことをわがことのように思い、東海地震などのこちらでも起きる地震に対して備えておくこと。」そう伝えました。

 今回の震災を機に、宮城の現状をこの眼で見、福島のこれからを聞き、宗祖親鸞聖人750回御遠忌にあたり、さらに母が病気で倒れたことも重なり、本当に「いのち」を考えされられた1年でした。これから「いのちをまもる」ことについての活動をしていこうと思うことができました。

 最後に、当山本堂にて、私が訪れたときの写真数枚とともに、募金箱を設置していましたので、そこで集まった募金を少額ながら仙台仏青にお送りすることができました。支援は、これだけに留めず、せっかくいただいたご縁をもっと深めていきたいと思っています。それに、今回の旅では時間的余裕が無かったため、山田町まで行くことはできませんでした。ただ、あのおじさんは生きているって信じています。必ずまた会いにいきます。




















12月19日〜21日 高岡のM.Jさんより

仙台仏青の皆様、先日はご一緒させていただいてありがとうございました。
12月19日からお世話になった松浦です。
改めてホームページで活動内容などを拝見し、ただただすごいなぁと感心させら
れました。
私なりに何か小さなことでもお手伝いがしたいという気持ちで、急きょ参加させ
てもらいました。本当に飛び入りで、右往左往するばかりでかなりの足手まと
いだったと反省しています。受け入れてくださり本当に感謝しています。


3日間、相馬市や女川町や寄磯崎とそれぞれの仮設住宅でのバザーやお念珠作
り、炊き出しなど一緒に体験させてもらいました。
まず、以前より私が思い込んでいたボランティアというものよりも、温かいイベ
ントとという感じがしました。それは現在の状況であり、これまでの活動内容
を写真やホームページで拝見し、徐々に現地のニーズが変化してきた上での今の
活動なのだと分かりました。
訪れる先々では仮設住宅の方々が楽しみにしていらっしゃる事が雰囲気で感じら
れ、仏青の皆さんとのつながりができていて温かさが伝わってきました。そし
て活動される仏青の皆さんや、全国各地から来ておられる教区の皆さんのチーム
ワークにはただただ感心するばかり…。
私が参加したのはクリスマスシーズンで、サンタに扮し子どもたちにプレゼント
を手渡す大役をいただきました。どの子もほくほくとした笑顔、それを 見守る
お母さん方の笑顔も、本当に嬉しそうでした。
ありがたいことにおいしいお刺身やたら汁まで御馳走になり、ほんの少しですが
お話も伺い、飲食をしながら語らう場の大切さを知りました。

他にも書ききれないのですが、今回ご一緒して体験させていただいたり見聞きし
た事、ずっと忘れません。家族や友人知人に現地の様子を話す事もささやかな
がら私にできる事と思い、伝えていきたいと思います。
北陸も雪が積もり寒いのですが、東北の寒さは更に厳しく驚きました。皆様、お
身体に気をつけてお過ごしください。













2011年12月23・24日 大分のS.Yさんより

 今回、大分から初めて参加をさせていただき、12月23・24日の活動にご一緒しました。
 突然の参加にも関わらず、温かく迎えてくださった仏青の皆さんにまずもってお礼申しあげます。

 正直なところ、震災から9ヶ月経ち、復興が少なからず進んでいるものだと勝手に思い込んでいました。
ですが、現地の様子を目の当たりにしたとき、自分の勝手な思い込みを恥じずにはおれませんでした。
同時に、テレビや新聞で被災地の現状を見聞きし、その様子や被災された方々の苦悩を「わかったつもり」でいた自分がいたことにも気付かされました。今、思いかえすと、自分と被災地とに一線を引き、他人事としてしか考えていなかったという事実を突き付けられたように感じます。

 今回、石巻市の仮設住宅にお邪魔をし、たくさんの方々と話しをすることができました。その会話の節々に、これからの生活や将来に対する不安があるとおっしゃっていました。先が見えないという不安。これは我々にとって非常に重大な問題であるように思いました。しかし、そのような不安と闘いながらも、今、自分に何ができるのかを模索しながら、この瞬間を生きんとする意欲を感じることもありました。

 まさに「たちあがれ自分!」と、自らを奮い立たせる姿を見せていただいたように思います。

 被災地の皆さんの意欲や仏青の皆さんの活動が、復興への確かな歩みとなることを願っています。












山形のT.Yさんより

 石巻雄勝と名振にて2日間お世話になりました。

 自分はこの9ヶ月の間できるできないとか、するしないとか、行く行かないとかそればかりで悩んできました。
 今回ひょんに誘われてふらっと行ってきて、あぁ、どんな形であろうと歩んだところからもっと素直にいただきゃよかったのかと知って何だかびっくり‥。
 やったことはテント張ったり凍ったチキンをチンしたり子供ときゃっきゃっ遊んだり何かしたわけじゃないんですけどね。

 人と場に剥がされる2日間でした。














チーム三重のみなさんからの寄稿文(6名)

◆ボランティア 2011.10.19(水)

 石巻市の避難所へ行くと住民が少しずつ集まってきました。仮設住宅の中にある集会所をお借りして無料バザーをし、外では焼き鳥を行います。朝、東北別院で積んだ三重からのバザーの品や東北別院に送られてきた救援物資を集会所に置くと住人の方が「手伝ってあげるわ。どこ持っていくの?」と協力してくださり、あっという間にバザーの準備ができました。外で焼き鳥の準備もしていると、ゾロゾロ住民の方々が集まってきたので隣の部屋で手作り念珠教室が開講。念珠を作っている間にバザーの段取りを決めました。まず数字の書いてあるくじ引きをして、その後10人ずつのグループを作り、そのグループごとにバザーを行い、1人5点までというルールとしました。各回毎に仙台仏青の方がバザーの趣旨を説明していました。「このバザーは全国のお寺やご門徒の方などが送ってくださったものです。また、いろんなところでこのバザーを行いますので丁寧にお取り扱いください。」そしてバザーは始まりました。5点という制約があったのでみんなそれぞれ真剣で、それぞれに必要なものが違います。食品関係、お風呂洗剤関係、衣類関係。たくさん並べましたが、すぐに無くなったのは本棚やカーペットの下に敷くマットなど生活用品でした。また、意外だったのがお茶葉でした。寒い季節あったかいお茶が飲みたくなるんですね。いろんな方の協力がありスムーズにできました。バザーを見た方はそのまま念珠を作ったり焼き鳥を食べたりしていました。片付けも住民の方々に手伝っていただき掃除機までかけてくださいました。

 最初、品物を並べながらあるおばあさんとの会話が心に残っています。「被災して初めて自衛隊の方に毛布を戴いたときはそれはもうありがたかった。避難所では座布団1枚無い生活からはじめなければならず、この最初にいただいた毛布は感謝を忘れないために座布団の綿代わりにして再利用しているよ。」ものへの感謝無駄にしない思い被災者でもある仙台仏青や住人の方に教えていただきました。
 最後、少し残った焼き鳥を仙台仏青の方といただき帰り支度をしているとまた住人の方が顔を出してくださり、わざわざお礼を言いに来てくれました。しかしながらこのたびのボランティアに際しご協力くださった住職さん、坊守さん、ご門徒の方々に厚く御礼申し上げます。
(K.A)

◆東北にお邪魔し、仙台仏青の活動に参加させていただいて

最初は今までテレビの向こう側だった被災地の景色が自分の目の前に実際に広がっていることにただただ驚くばかりでした。無残に骨組みだけになった建物、壁が抜け柱のみでなんとか建っている家屋、田んぼの真ん中にある壊れた車や散乱した瓦礫を見て、津波被害の現状を目の当たりにした時、とても恐ろしかったです。

1回目2回目共に活動の中で避難所や仮設住宅の方々と一緒に念珠作りをさせていただきました。作っている方々はたくさんある珠の中から自分の好みに合うものを見つけ、糸に通して一生懸命作ってみえました。その時は皆さん笑顔で楽しそうに話しながら作ってみえました。その笑顔は一瞬そこが被災地であることを忘れてしまうようなほんとうに楽しそうな笑顔でした。東北でその笑顔を見られたことはとても嬉しかったです。
今回、炊き出しや念珠作りといった直接人と関わり合える活動に参加できたこと、そして、東北の方々に出会えたことを大切にしていきたいと思います。
                             (Y.M)



4月、5月、10月、三度、被災地を訪れた。4月は目の前の光景に自分が何を感じているのかわからなかった。避難所で会った子供たちと少し話して、笑って、顔がこわばっていたことに気付いた。テレビのニュースにはあらかじめ喜怒哀楽が貼り付けてあって、やっぱりそのとおりに感じていたのだと思った。自分の目で見た光景は、それが「現実」であることに圧倒されて、感情が止まってしまったように感じた。

5月は4月とそれほど変わらなかった。避難所の内と外の距離を感じて、宮城と三重の距離を感じた。道を聞いたら言葉がわからなくて、地面に地図を書いてもらった。あの時もっと話をすればよかったと、今は思う。

10月はずいぶんと様子が変わっていた。少しだけ話ができた。言葉を交わした程度だけど、それでも人の雰囲気が変わったように感じた。それはきっと状況の変化だけではなくて、仙台仏青がつなぎ続けている関係に、仮設住宅の人たちの信頼があるからだろうと思う。

三重に戻って数日後、被災地のことを考えていたら、涙が出た。何故かは、よくわからない。それでも、やっと心が動き出したように感じた。時間がたっても情報を与えられ続ければ忘れることはないのかもしれない。でも自分から遠くはなっていくのだろうと思う。たとえ直接じゃなくても被災地につながる人との関わりが、自分の過ごす日常の中に被災地の現実があるということを刻み続けるのだろうと思う。
                         (O.H)


◆取り合えず無事帰ってこれて良かったです。

 正直な感想として日程的に仕方ないとはいえ、疲れました。初めての現地ボランティアだったのもあるかと思いますが、32歳の僕からしても若い人じゃないとなかなか厳しいんじゃないかと実感しました。(何回も参加されてる大橋さんは若いです。)あとは実際に被災地の現状を自分の目で見て、思ったほどの実感がわかなかったことが本音です。それは時間が経ち復興が進んだところや、今尚ほとんど手付かずの地区では目に入るのは大型トラックや作業員の人達が多かった為もあるかも知れません。被災された方々にお会いして感じた印象は、仮設住宅で生活されているので、大変な思いをされているとは思いますが、皆様は淡々と生活を送られているという感じでなかなか自分には伝わってきませんでした。そして表に現されていない分、余計にストレスがあるのではと案じました。そんな曖昧な感じで、自分には何ができるのか、何をしなければならないのか、現地に行く前より帰って来てからの方が余計解らなくなったように思います。けれど、行ってみて良かったのは仮設住宅の方々に手伝って頂きながら用意してやり終えた無料バザーや、炊き出しを少しの時間でも楽しんで、喜んでもらえたことです。帰り際にわざわざ外に出て来て、「有難うね、ご苦労様、またここに来てね」と言われた時、仙台に来て本当に良かったなと思いました。

 これからのボランティアで必要だと感じたのは、被災された方々とどうコミュニケーションを取っていくかだと思います。それは、例えば先回のボランティアの会議で話し合われた、「これからは物資はもちろん、精神的なケアが重要になってくる」ということなのだと思います。今、桑名の寺町でやらせてもらっている仏事相談でお茶を飲んでもらいながら、お話を聞くことを経験して、その重要性を感じます。バザーや炊き出しというツールによって集まってくださった方々と、交流させてもらうことにおいて共通点があると思います。その為には、仙台仏青の方も感じておられるとおもいますが、まず絶対的に人材不足な点と、時間の余裕、活動資金など問題はたくさんありますが、その中でできることを見つけて工夫しながらやっていきたいです。

 次回また現地に行くときは、寿司の企画喜んでやらせて頂きますので、よろしくお願いします。                                  
(S.T)


◆感じた事などを書きます。

 特に被害の大きかったところは家の基礎だけ残っていて、あぁ、ここに家があったんだ。と分かりました。10月の時点では点々と家が残っているだけで、何かすっきりしているという感じを受けました。震災が起こる前の町の姿を想像しようとしても、私には出来ませんでした。

 一度、自分の目で見たいと思って参加させて頂きました。「失う」とはどういう事か。何が「残った」のか。3月に受けた衝撃を自分なりに整理というか、実感というか、確かめたいというか、分からないけど、現地に行って触れてみたかったのかもしれません。
 現地に行ったことで自分の中で何かが分かるとか、変わるとかじゃないけど、行けて良かったとは思います。
                                (I.N)



◆2011年11月6日
 2011年10月18日、 僕はとあるきっかけがあって宮城県へ行ってくることになりました。 宮城県といえば今年の東日本を襲った大震災の影響を強く受けた場所です。自分でも何か小さなことでも役に立てればという思いで、今回東北の方へと行かせてもらいました。

車で約12時間かけ仙台市の東北別院に着きました。その辺りは震災による津波の影響をあまり受けなかったみたいです。実際に今僕が住んでいる大阪と同じように車が走り、ビルが立ち並び、民家もしっかりと建っており、様々な人たちで溢れていました。しかし、その都心部から沿岸部の石巻市の方へと少し車を走らせてみると、半年以上も経った今でも震災の爪痕がはっきりと残っていました。田畑は無くなり、民家や学校はほとんど崩れ去っていました。その場に立つと、まるで戦争でもあったかのような光景で、言葉を失いました。この石巻市は津波の影響を最も強く受けた場所の一つであり、非常に多くの人命が奪われたそうです。「この場所で半年近く前に多くの人が亡くなりました。」と案内をしていただいた仙台仏青の関口さんに言われた時、僕は今まで感じたことのない思いが込み上げてきました。はっきりと言葉にすることが出来ない、天災の恐ろしさ、命の儚さ、無常さ、そのような感覚を感じたのを覚えています。

そして、その悲惨な場所を訪れて自分の中で最も強く考えさせられたのが、「一体、この場所で何が残ったのだろうか。」ということです。その光景を見ている時の自分にはよく分かりませんでした。残ったのは瓦礫の山と残酷な現実だけだと思いもしました。しかし、その後に訪れた仮設住宅地でのバザーや炊き出しの時に、自分の中で何かその答えの様なものを感じました。それは、遺族や仮設住宅に住む残された人々のことです。極端に言えば、僕らが訪れた場所だけなのかもしれませんが、僕が会った方々はとてもイキイキとしているようにも見えましたし、未来へ向けて一歩一歩しっかりと踏み出しているように見えました。仮設住宅の人たちの笑顔に自分はそう感じました。

この一泊三日という短い期間で「何がどうだった」と言う様なはっきりとしたことは吸収しきれませんでしたが、この問題は東日本の被災された方々だけの問題ではなく、僕ら日本人すべての問題であるように思いました。これからも、何か小さなことでもいいので貢献していきたいと思います。
                                (K.K)















福岡の九大仏青寮の皆さんより

寄磯、月浜にある仮設住宅での炊き出し・バザー・念珠づくり等に参加させていただきました。全国各地からボランティアが集まっており、当日出会ったばかりの水知らぬの人々が同じ目的に向かって作業すること、意見交換することは不思議な感じがしましたが、新鮮で心地よくもありました。活動全体を通して、主催者である仙台仏青や高田仏青の皆さんが非常に慣れており、スムーズな流れに感心するばかりでしたが、それと同時に、被災者との結びつきを始め、この状況を作るまでに大変尽力されたのだろうということが伺えました。
「半年っていうのは私たちが勝手に区切っているだけであって、被災地はまだ被災地であり、復興は現在進行系、あるいはまだ手つかずの状態なんだ」という仙台仏青の方の言葉が印象に残っています。被災地を訪れるまで、「もう半年も前のことだから復興はある程度進んでいるだろう」と思っていたのですが、現実は、倒壊寸前の建物ばかりがある、誰もいない住宅地があり、逆に何もかも津波で流され、茶色の地面だけが広大に広がる場所があり、被災した小学校の黒板は3月の予定が書かれたままであったり、仮設住宅では毛布が圧倒手的に不足していたりと、復興のゴールまでは、まだまだ本当に遠いようでした。
被災地でたくさんの方とお話させていただきました。私は宮崎出身ですが、宮城弁で話しかけられるとつられて宮崎弁が出てしまって、何だかおかしかったです。被災者の方は本当に様々で「被災者」とひとくくりにすることができないということを感じました。仮設住宅に入っているあるお祖母さんは衣装ケース2つを抱えて避難し、その他は家も何もかも流されたそうです。そんな身の上にも関わらず、初対面の私のためにお風呂を準備し、自分が貰った支援物資を私にくれようとしました。また、あるお母さんは常に道の端っこを歩くよう心がけているそうです。「自分たちが被災したのに自分たちではどうしようもできず、ボランティアの方は一生懸命で何だか申し訳なく、それ位しかできないので」とおっしゃられました。被災地の方は何かを無くし、誰かを亡くし、心に深い傷を負っているはずですが、それを感じさせない位、温かく、強く、優しく、逆に私たちの方が励まされた気がしました。
私たちは今回、一部分、しかも綺麗な部分しか見ていないのだろうと思います。しかし、本当に多くのことを考えさせられました。今後は、ただ一人で考え思うばかりでなく、今回体験したことを多くの人に発信し、震災について考える人を増やすことが、まず私にできることだと思っています。そして、これから自分がどうやって震災復興に関わっていくかついて考えていこうと思います。
仙台仏青の皆様には大変お世話になりました。どうぞ、また参加させてください。
(K.A)




3月11日東北で起きた未曾有の災害が起きました。テレビやインターネットで被災地の映像を見て、非現実的な光景だったのを思い出します。仙台空港は一度訪れたことがあっただけに、飛行機や車が流されていたのは衝撃的でした。友人も仙台市内に住んでおり、連絡が着かない状況が続いていたため心配は増すばかりでした。
今回、仏青という共通点から仙台仏青にお世話になり、被災地をまわったり、バザーや炊き出しに参加させて頂きました。最近ではメディアで報道される回数も減り、福岡にいる時点では「半年も経過した今、自分たちのすることはあるのか?」と自問していましたが、実際に被災地を訪問した時にその考えは変わりました。流された家や車の山、土台だけの家、崩壊した橋、まだまだ復旧は進んでおらず、住民の方々は仮設住宅生活を余儀なくされていました。今回の訪問で東北の復旧のために微々たる力しかお貸し出来ませんでしたが、日本中から多くの方々が訪れ、その積み重ねが元の生活を取り戻す唯一の手段だと思います。
仙台仏青はボランティアをこれからも続けていくのでしょう。遠く福岡からではありますが、お怪我の無いよう益々のご活躍をお祈りしております。また、機会があれば再度訪問させて頂きたいと思います。
(S.T)



東松島市月浜地区での炊き出し、バザーの手伝いをさせて頂きました。現地に到着するまでに津波で被害を受けた家屋や学校、車や木々などを目の当たりにし、自然災害の恐ろしさを実感すると共に、被害に会われた方々の苦労を想像するに心苦しさを感じました。月浜地区の仮設住宅を訪れ、現地の人たちの生活や姿を見て、自分が想像していたものと違って皆さんがとても明るく生きている印象を受けました。まだまだ物資が足りていないし、生活も満足にできていない状況で、それでもここで生活していこうという強い志しを感じることができました。震災復興のボランティアも初めてで、震災状況も仕事もあまりわからない、よそ者の我々九大仏青寮の学生を受け入れて頂いて、本当に感謝しています。考えさせられること、得るものがあり、自分たちのためにもなりました。震災地と離れた九州に住む自分たちがボランティアに参加した経験を有意義なものにすることが仙台仏青さんへの恩返しであり、被災地のためであると思います。現地で体験してきたことを活かし、これから役に立てることを考えていきたいと思います。お世話してくださった皆さん、ありがとうございました。
(S.J)


今回一連のボランティア活動に参加させて頂いて、僅かながら現状を知ることが出来た。福岡では連日原発のニュースばかりで津波被害に関する情報はほとんどない。私自身、行く前は「もう半年も経過しているしな…」という気持ちが心のどこかであった。半年経ったから大分復興しているだろうと安易に考えてしまっている自分がいた。
実際に被災地に入ってみて、さら地となった海岸沿いの街、今も残る瓦礫の山、つい先日まで避難所暮らしだった被災者の方々などの現状を知った。
遠く離れた福岡から私ができるのは、東日本大震災を風化させないこと。再度現地を訪れボランティア活動に参加したり、福岡にいながらできる間接的支援を継続したい。
(H.J)



9月27日正午、私たちは東北到着しました。仙台空港に着陸する飛行機から海水に浸かった畑を見て、震災の爪痕をまざまざと感じました。
 9月27日は、仙台仏青、他のボランティアの方々とご一緒に東松島市月浜地区の仮設住宅でバザーと炊き出しをさせて頂きました。こちらの仮設住宅では29世帯100名程の方々がお住まいになられています。
 バザーでは沢山の物資が全国から届けられていました。また、ユニクロの支援物資もありました。支援物資の多さから、仮設住宅で必要となる物資の多さを実感しました。また、こちらの仮設住宅では元々ご近所の方々がそのまま移り住んだ場所だったので、みなさんの仲が大変よく、もめごとも無く、てきぱきと行われました。
 炊き出しでは、さんまの塩焼き、焼き鳥、味噌汁うどんを作らせて頂きました。僕達もすこし頂いたのですが、秋という季節にぴったりの食事でとても美味しかったです。また、このときにボランティアの方々と仮設住宅の方々との親睦会も行われ、みなさんが有意義な一時をお過ごしになられているのを見て、心が温かくなりました。
 9月30日。この日は石巻市の寄磯地区の仮設住宅へ念珠作り、バザー、炊き出しをさせてもらいに行きました。念珠作りは子供たちに遊ぶ機会を作るため、また大人の方々には念珠として今後使っていただけるようにという思いからさせて頂いておりますプロジェクトです。寄磯の方々には、楽しんで参加していただけて、念珠作りのボランティアをした自分たちも非常に嬉しかったです。
 炊き出しでのメニューは、アサリご飯、味噌汁、焼き鳥でした。会場ではアサリご飯のいい匂いがたちこめていて、食欲をそそりました。寄磯でも炊き出しはご満足頂けたようです。
 今回の月浜、寄磯でのボランティアでは、僕は仮設住宅の方々と多くのコミュニケーションを取ることが出来ませんでした。しかし、コミュニケーションを取ってくださった方々は皆温かく、有意義な時間を過ごす事が出来ました。今度は、自分からコミュニケーションを取れるよう頑張りたいと思います。また、主目的のボランティアには積極的に参加させて頂きました点に関しましては、非常に感謝しております。
恐れ多くも自己満足な文章ではございますが、投稿をさせて頂きます。
(Y.T)


私は今回のボランティアで初めて東北に行きました。仙台空港で最初に目にした震災の爪跡。活動場所への移動中も、瓦礫の大きな山、つぶれた車の山、残された家屋など、震災の悲惨さに驚くばかりでした。それでも、炊き出しを行った仮設住宅に暮らす方々の笑顔で、“生きる”、これからも“生きよう”とする姿に勇気づけられました。辛い状況で頑張っている人がいる。幸いにも、同じ日本にいながら、地震の被害に遭わなかった私達にできることは何か。模索していかなければ、と思いました。最後にお世話になった仙台仏教青年会の方々にお礼申し上げます。ありがとうございました。
(M.H)













九州大学仏教青年会の方々より

8月31日、牡鹿町寄磯の避難所でのバザー・炊き出しに参加させて頂きました。

仙台仏教青年会の方々には、何のつながりもない私たちを受け入れて下さり、支援活動に参加させて頂き本当に感謝しております。

初めて被災地へ赴きましたが、半年たっても瓦礫や倒壊した家屋がそのまま残されているところも多く衝撃を受けました。バザーに参加させて頂いた時も、みるみる物資が無くなっていき、また炊き出しをする前に配布されていた夕食がおにぎりとパン1つずつで、栄養状態も含めまだボランティアや物資支援が必要なことを感じました。個数を決めて配布しなければならないのが心苦しかったです。

しかし、被災地の方々はとても前向きで、しっかりと生活を営んでおられました。子供たちは元気に走り回っており、逆にこちらが元気づけられました。

また、被災地で活動する様々な団体・個人の方と触れ合うことができ、皆さん被災地のために物質面でも精神面でも自分達ができることを精いっぱい活動しておられ、資格や特技のない自分でも役に立てることをやろう、と感銘を受けました。今回の滞在を通して、遠方に住む私たちがどういったボランティアができるのか、どういった活動をすべきなのかについて考え、取り組んでいきたいと思いました。現地に行くことも、遠方から支援できることも含め、継続して活動を続けていきたいです。

(S・I)



3月11日に震災が起き、ボランティアをしたいと思いました。

しかしそういったことをしたことがなかったため、実際どんなことをしたら良いのかという事が全然分かりませんでした。

そんな時、ホームページを通じて、仙台仏教青年会の方々と知り合いました。考えるよりも行ってみることが大切だと思い、8月の末から5日間、仙台仏教青年会の方々に宿泊場所を提供していただき、かつボランティアに参加させて頂きました。どのような活動を行うのかといったことは詳しく知らなかったので、おそらく瓦礫の撤去作業や泥の除去作業のようなことをするものだと思っていました。

しかし私が仙台に行ったときには、ちょうど台風12号が接近していたため、安全に配慮してボランティアの作業は中止になってしまいました。

仙台の人の役に立つことが出来ないまま帰ることになってしまうのだと思っていたのですが、最終日の前日には何とか天候にも嫌われず、「中学校で行われる運動会のお手伝い」といったボランティアに参加させていただくことが出来ました。合併により牡鹿半島で唯一の中学校となった牡鹿中学校での運動会だそうです。具体的には、かき氷と綿菓子と焼き鳥を、運動会に来ている父兄の方、生徒たちに提供するというものでした。

震災の影響を受け、転校を余儀なくされた生徒もたくさんいた中、64名の生徒と、その親御さん、先生方、ボランティアの方、多くの人たちが集まり、みんなで運動会という一つの大きな行事を作り上げていこうとする姿に感動を覚えました。

また、そういったものに参加させて頂いている自分はとても幸せであると感じました。


運動会のあと、仙台仏教青年会の知り合いの父兄の方々と一緒に行う交流会にも参加させて頂きました。

そこでは、地震が起きた日に少しの行動の差で命が助かるか奪われるかが決まったということについて深く話して頂きました。

また、仮設住宅では物資は足りているが、隣に住んでいる人との交流がないといったように、人と人との心の繋がりをうまく形成できていないという実際問題についても教えて頂きました。


5日間の滞在を経験して、表面上「復旧」は進んでいるようには見えても、まだまだ「復興」には時間がかかるのだという事を痛感しました。震災が起きて数ヶ月はみんな関心があり、たくさんボランティアの人も来て下さると思うのですが、時間とともにだんだんみんなの関心が薄れていったらボランティアに来て下さる人も減ってしまうのではないかという事が大きな心配事の一つだそうです。

機会がありましたら、また私もボランティアに参加させて頂きたいと思います。

(D・T)



久留米仏青KTPより寄稿文 第1期 仙台仏青支援活動 報告

 仙台に行ってきました。今回自分は現地の方々を支援して手助けするつもりで行ってきたのですが、むしろ自分の方が多くのものをいただいて帰ってきました。

 仙台仏青の方々は毎日メンバーが協力して時間のある方が交代で活動を続けておられました。自分も仙台仏青の方々とは共に支援活動を行い、交流会を通して繋がりも持てたし、メンバーが互いに支え合いお寺の者だけでなく仕事に関係なく協力し合う姿を見せてもらいました。活動も共にしながら同じ仏青としても学ぶところも多かったです。無料バザー・炊き出しに赴いた寄磯の方々とも交流を持ち、支援に来た自分が助けられたこともあって自分の行動がどれだけ役立ったのかわかりませんでしたが、感謝の言葉と共に「また来てよ」と暖かい言葉もいただきました。現地の状況は未だに手つかずで、自分も瓦礫と車の山に愕然としたのですがそこで笑顔を絶やさず一生懸命活動している人たちとのこの経験は自分の背中を押しています。出来ることをやっていこう、この思いを持ってこれからの活動も続けていきたいと思います。
(K.N)


 今回、みなさんからカンパをいただいて仙台仏青の活動に参加させてもらいに行きました。
仙台仏青や支援センターを中心にたくさんの人たちが集い関わっていること、この短期間でも実に多くの人たちにお会いできて、それぞれいろんな思いを抱えて活動されていることを垣間見ました。そしてなにより、その中心で仙台仏青のかたがたが本当に縦横
無尽に走り回っておられる姿に、とても刺激をうけてきました。
また、避難所やすさまじい被災の跡、一見日常を取り戻しているような仙台自体も被災しているんだという状況に身を置いて、まだまだ本当にこれからなんだということが強く実感されました。3月11日以降、どんなサポートができるのだろうと震災のことを考え続けているような気分でいましたが、まったく遠いところにいたのだなあと思いました。
仙台仏青会長の佐々木さんが、HP(たちあがれ自分)に、亡くなった方のいのちが自分を動かしている、ということをかかれていました。そういうことで言えば、私は仙台仏青の、そしてそこに集う人たちの、その姿に強く背中を押される気がします。

(A.U)


7月14~19日の日程で参加させていただきました。現地に行った率直な感想はまだまだサポートが必要だということです。田畑に車が転がっていたり、骨組みだけの建物が残っていたりと本当に復興までの道のりはまだまだ長いと感じました。そしてその中で同年代の現地の仏青が、有縁の方々が各自の仕事を抱えながら炊き出しや無料バザー等で色んな場所に駆けつけています。しかもかなり離れた距離の所まで。そんな仲間が現地で踏ん張っている姿を目の当たりにしたら、彼等のサポートをもっとしたいし、せずには居れないと思いました。ここで生活する僕らにもきっと、もっと出来ることがあるはず。そう思える「何か」を感じました。
 現地で懸命にその命を輝かせている姿が今、ここにいる僕を動かしています。そしてみなさんが感じている思いや、たくさんの願いを現地に届ける作業をこれからも久留米から、そして現地に行き、続けていきたいと思います。

(K.K)


7/11~19の期間行かせてもらいました。仙台の教務所にある物資の在庫を見て、はじめいっぱいあるなと感じました。
しかし無料バザーを手伝わせていただき、なくなっていく数を見たとき最初に思ったことが間違っていたことに気付きました。一回のバザーでなくなる量がすごい!!足りない!!物資は足りていると思ったのが申し訳ないと思うくらい少ないです。後日物資の在庫の整理をしていて、物資の在庫のうち衣類、寝具類の半分以上が冬ものばかりでした。
衣類に至っては、しみで汚れていて誰も着ないようなものまで入っていた。あと物資を送るときの入れ方も、隙間があるからうめようと、送る側の親切心で色んなものを詰め込んである。しかし仕分けるほうからすると、中身を一回出してチェックしないといけないのでその分手間が増える。仕分ける人手も足りない状態なので、これは絶対避けたほうがいいと感じました。
被災地の状況は、直後に比べると、片付いてきているのかもしれませんが、まだまだ時間もかかるし、人の力、金銭面とが必要です。ほんとに一人一人ができることをやっていくしかないです。

(J.F)


東北に行く前に、どのような心構えで行けば良いのか考えていました。出発前日には、母から厚手のカッパや手袋を渡され、自分は何をしに行くのだろうかと考えさせられました。行く前から、勝手に東北の被災地の方や東北別院で活躍されている方は大変でしんどいのだろうなと考えていたし、自分が被災地の方たちから、何冷やかしに来たのだ、と思われるのだろうと思っていました。
しかし、東北へ行くと仙台仏青の方たちは優しく迎え入れて頂き、仙台仏青と一緒に炊き出しへ行くときも、わざわざ遠回りをして被災地の石巻を視察させて下さり、そのとき仙台仏青の方が「ただ観てもらって何か感じて欲しいです。」と言われました。自分が思っていたこととは逆に、もっと被災地と向き合い、一緒に頑張りましょうという想いを感じました。
また、被災地の避難所で生活している方たちは、自分から無理矢理声をかけることなくても、避難所の方たちから優しく話して下さりました。しかし、その優しさから感じられる悲しみの一面も見せられ自分がどうして良いのか分からなくなることもありました。そして、支援する人と支援を受ける人という自分が思っていた関係とは違い、被災地の方は人対人という関係で関わって下さいました。ただ、どんなに自分が被災地の方と一緒の気持ちになって頑張ろうとしても、それは難しいということも感じました。
今回、東北へ行き被災地の方と、悲しみを共有することは簡単ではないと思いました。そんな中で、自分がどう被災地と関わっていけるのだろうか考えなければいけません。ただ、現地を視察できたことで、知らないままで通り過ごすことは出来ないと思いました。今回の一回きりではなく、今後も自分に出来ることは何なのかを考えて東北へ行きたいと思います。

(M.K)








チーム三潴(みづま)のNさんより

6月2日から6日までお邪魔させていただきました。

仙台仏青とチーム二本松のメンバーの活動に同行させていただきました。

なんとパワフルな?メンバーなのだろう。初めて会った時からテンションが違いすぎる。(これはチーム二本松が特に?)4日~5日は南三陸町にBOPと炊き出し、バザーに出向いたのだが、前日のテンションとは違い、無言で準備に取り掛かり、BOPの活動に入っていく。それぞれがそれぞれのポジションで。

自分は指示をまちながらの行動だったので逆に足手まといになったのではないだろうか。

それでも決して迷惑がりもしないと、仲間として対応してくれた皆様に感謝!



5日間の日程でお邪魔して、そのうちの夜はお酒が入るのだが、単なる賑やかな飲み会ではなくて、その中にそれぞれの思い、またそれぞれ生の声を聞かせて頂いたように思う。非常識かもしれないが、ある意味で楽しい飲み会でもありテレビでは見ることの、聞くことのない現実を知ったことです。そしてその現実を門徒さんにも語り継いでいくことが行ったものの責任でもあるように思えてきました。

まだまだ長期間の支援活動が必要なのでしょうが、仙台仏青とチーム二本松の皆様のお身体を案じながら。



大山でもなく、小山でもなく和歌山でもないNです。









チーム三潴(みづま)のTさんより

今回のチーム久留米もしっかりと仙台の皆さんと親睦を深めてきたようですが、僕の場合もSさんを通じて仙台でみんなに出会えた事がとても大きいです。BOP活動に加えてもらい、その場所で生活し活動を続ける人達と友達になった。(もう勝手に友達だと思い込んじゃってますんで、違うって言われると・・・うん、まぁそれでもヨロシク)



友達がそれぞれ事情を抱えながら、それでも様々なかたちで続けている。都合4日程一緒に過ごして、福岡に帰ってきて改めてこちらでの「僕の日常」とに強烈なギャップを感じ、やりきれなさに泣いてしまいました。今日は確かあそこに行ってる、明日も続けてる、またすぐに飛んで行ってお手伝いしたい・・・。



だからといってやはり、僕が抱える現実も放り出す事はできない・・・。



でも、でも、また必ず東北を訪れ、みんなと先日のように馬鹿話もしながらお酒を飲めるように調整します。



それまでは浮かんでくるみんなのすがたと感じ続けるギャップに力をもらい、こちらからすこしずつでも後押しすることができればと思っています。

ただ、サマーになってきてみんなの体調等も気がかりです。そちらからの情報をできるだけキャッチして余計に無理させたり仕事を増やさないようにと一応考えてはいるつもりですが、「お前、それはNOだよ」って時は遠慮なく言ってくださいね。





2011年6月27日 牡鹿&東松島にて

BOPの活動を知ったのは震災から3ヶ月も経とうとしていた頃だった。
とあるライブ会場で紹介されたI氏からのメール、そこには被災地からの生の声が綴られていた。
少しでも手伝いたいと、彼に連絡をとることにした。
旧知の仲とはいえ、何年ものブランクがあった。しかも、信徒でもない。
にもかかわらず快く僕の頼みを引き受けてくれた。
ということで、スケジュールをあわせて6月27日仙台へ入った。
その日午後から生憎の雨の中を岐阜かれ来られていた方々と合流して、牡鹿半島にある避難所に向かった。
飛騨牛の焼肉とバザーの手伝い。
途中から酒も入り、地元の方と話が出来、様々な話を聴くことができ、今でもそのひとつひとつの話しをふと思い出したりします。
ホヤや鮭を差し入れていただき、これがまた美味しかったこと。
すごい、親近感のある避難所でしたが、ここまでにはBOPの方々の絶え間ないサポートなどがあったればこそだと、頭がさがる思いです。
次の日、東松島で、バザーなどの手伝いをして、帰りがけに少し遠回りしてもらい、石巻市街から日和山辺りを目にすることが出来ましたが、瓦礫は片付けられているとはいえ、強烈な光景でした。
こういう機会を与えていただいた、BOPの方々にはほんとうに感謝のヒトコトです。
今度は、何が僕に出来るのか今一度考えて、再度手伝いたいと考えているところです。
その時は、皆様またよろしくおねがいします。












2011年6月20日 仙台市六郷中学校





仙台仏青の皆さん、大変な状況の中、本当にお疲れ様です。ただただ頭が下がる思いです。そして、いつも私たちにお付き合いいただき、心より感謝しております。ありがとうございます。今回もまた迷惑をかけたのかな?などと少し反省もありますが、被災者の皆さんの温かさに逆に勇気づけられ、幸せな気分で帰ることができました。今更ながら共に生きるということを、あらゆる皆さんから教えられます。これからもよろしくお願いします。チーム能登は意外としつこいです、覚悟して下さい。それでは、くれぐれも…。

合掌 チーム能登代表












2011年6月15日 牡鹿半島で支援活動を終えて




かつて仙台教区でお世話になっていたものです。


6月15日に三条教区より有志3名でうかがい、仙台仏青のみなさんによる石巻市牡鹿

半島の旧大原中学校での無料バザー、炊き出しにご一緒させていただきました。三条

別院に集まった物質もお届けしました。


現地へ向かう車中からの光景を見て、復旧は確実に進んでいるとはいえ3ヶ月以上が

経過したとは思えない被災地の状況に改めて驚くとともに、まだ生きていたかったは

ずの多くの命を奪っていった大震災、津波であったのだと思うと言葉を失う感じでし

た。当方新潟県も平成16年の中越地震と平成19年の中越沖地震で被災しましたが、こ

の度の災害は全く比較になりません。個人的には久しぶりにお会いするなつかしい顔

もあり、色々なお話を聞かせてもらいました。仙台教区は範囲が広く、比較的大谷派

寺院の少ない教区ですので、仏青の活動も大変だと思いますが、若い世代が活躍され

ている様子は頼もしく感じられました。


どうか無理のないよう、身体に気をつけて活躍を続けていただきたいと思います。










2011年6月12日 被災地を訪問して考える

6月3日の奥羽教区への出張の後、教区有志のご好意に甘え、秋田の能代から岩手県宮古市付近と、宮城県南三陸町の避難所を訪ね、仙台教務所に寄ってから新幹線で帰宅しました。



4日朝早く、秋田を出発して、日本海から太平洋へ日本列島真横に縦断し岩手に向かいます。

ちょうど田植えが終わった頃で、風になびく苗、緑豊かな懐かしい風景が続きます。

それが、峠を越えて海側に行ったとたん、風景が突然に変わります。



岩手県宮古市のお寺をお参りさせていただきました。少し高台にある山門のきわきわまで津波が。眼前の町は壊滅状態でした。



5月28日御遠忌最終日、その寺の坊守さん(70歳代かなぁ)お一人お参りされていた。

カフェあいあうで「長い間御遠忌の準備をしてきて、津波がきた。あきらめていたけれど、どうしても来たかった。息子夫婦に夫も任せて、一人できました。宮古に来たら寄ってください」と言われていた。

そうやろなぁ。毎日毎日の悲しい風景がすでに3ヶ月。少しその場を離れて、心の休養日が必要です。



その後は海岸線を下っていきましたが、どこもかしこも被災地です。山田町の避難所に9日予定のバザーお知らせチラシをはってもらったり、電信柱にはったり。

また、田老地区の被災地を訪問しました。更地になった、どこまでも続く大地。



夕方に大槌町の民宿・Sさんのお庭でおまちかねの「缶詰居酒屋」を開店。すでに近くの避難所から数名の参加がありました。

そこにたまたま読売新聞社の若い記者も合流しました。

電気も、ガスも、水道もまだ復旧していない。家の一階は、何度も大波が往復し、壁と柱だけがのこされています。

新聞記者が、消防隊員だった息子さんと最後に会った人と取材の中で出会って、その時の様子を、ご夫妻にお伝えにきたのでした。

近くのホテルの宿泊していた秋田からの観光客で、波にさらわれた人をロープで救出しようとするその時に、堤防も、近くを走るJRの線路も鉄橋も、なにもかものみこんだ大津波が来たのです。

「最近、少しは笑顔もでるようになったのですが」とお父さん、お母さんはただただ涙です。

 苦いビールと鼻水と、事前に用意していた唯一の生もの「お刺身」と姫路おでん(真空パック・上岸さんから届いたもの)で、ひとときの晩餐。支援のお酒は一升瓶よりワンパックがいいようです。



小さなガラス片、鉄くず、プラスチック等々が散乱したお庭に、殺風景だからと「三つ葉」の苗を畑から持ってきて植えておられました。

京都に帰ったら、お花の種をお送りしよう。ひまわりはどうかしら。

海水による塩害があるとしたら、どんなお花が大丈夫なのだろう。誰がご存知ないですか?



お父さんが、「電気もテレビもなにもなかったから、3月当時何が起こったのか、未だによくわからないのです。雑誌も映像も、正直見たくもないのです。でも、自分のうちに、村に、どういうことがおこったのか記録して残していかないといけないと思います。ただ、本屋も何もないのです」と。

お花の種に報道特集の記念号の雑誌も同封しよう。



翌日の買い出しのためおいとまし、北上で宿泊。



翌日5日は7時に出発、岩手から宮城県南三陸町に移動。

関西にいると、東北地方のどこがどこか距離感もなにもあったもんでないのですが、結構遠いのです。その遠い長い距離、太平洋側の海岸線沿いは、どこまでも深刻な津波被害が続きます。



10時過ぎに南三陸町に到着しましたが、ここはまだまだ瓦礫の撤去も終わってなくて、銀紙のようにつぶれた自動車、どげんしてここにある?と思う大きな船、何週間も前に報道でみた光景がありました。

ほんまに、なんにも終わってなく、始まっていない、そんな感じがしました。

報道が少なくなったからと言って、終わったのではなかったのです。



仙台仏青の人たちのバザーとお風呂プロジェクトに参加させていただき、餃子やお念珠作りのお手伝いをしました。

たのもしい若人たちだけど、くたびれることもあるだろうに。ホントにありがとう。

少し休めるよう人員の確保がホントに必要。



6月中旬、避難所から仮設への移動が始まるけれど、入居を望まない人が少なくない。



避難所には物資が届くけれど、それ以外は届かない。在宅の被災者への配給が中止されている。

親しい身内や職もなにもかも、多くのものを失い、支援金も届かない中、どうやって生活をしていけるのか。

ライフライン、なにで未だに復旧せんの?三ヶ月、電気、ガス、水道のない生活できますか。

無策という人災が。

それに加えて私たちの無関心が追い打ちをかけているかもしれません。



南三陸町から仙台に向かい、仙台教務所で復興支援センターの清谷さんとお会いして、状況をお聞きし、今回の報告も簡単にしました。

「清谷さん、今日は日曜日よ」と言うと、「そうやったなぁ」と。

どうかお身体大切に。

この日も、名古屋からの支援者や、大谷大学の木越ゼミから、バスでボランティアの若人たちが来てました。



先月末に、大阪からお好み焼き、焼きそばを作りにいかはったFさん、その時は大雨でしたが、今回は天候に恵まれました。



今回、少し被災地地方を案内していただき、感じたこと。

いよいよ物資が不足しています。実感しました。

物資も人も不足しているのに、終わらせようとしています。

さて、何ができるのか。



出会う人どの人も、「また来てください」と言われます。

また、おたずねしたいと思います。

今回、あらためて具体的な「ひとり」のないままの、「支援」とは、どういうことかと感じました。

奥羽教区の有志の人たち、仙台仏青の若人たち、広大な被災地を前に、ひとりの人と人のつながりを大事にしながら、具体的な活動をされてました。










2011年6月7日 高田教区から参加して

 5月25日から27日、石巻市の飯野川第一小学校に炊き出しへ行く機会を得た。地元の竹の子をふんだんに使った竹の子ご飯と、竹の子の味噌汁は盛況だった様に思える。
 しかし、炊き出しのメニューの良し悪しとは別に、炊き出しに来たという、そのことに応えてくれた結果、盛況になったのだと感じている。
 それは「どこから来たの?」という何気ない言葉から始まり、「遠いところを有難うね。何時間くらいかかったの?」との会話の端々からこぼれる笑顔だった。
 勿論、全員が全員ではないが、白い歯を見せて笑うそのお顔からは、生きている。生きたい。つながっている。つながりたい。というような実感を与えてくれた貴重な体験だった。
 また小網倉浜避難所では、仙台仏青による『お風呂プロジェクト』の第一号であるお風呂が設置されており、沢からの水をポンプで吸い上げ、薪を割っては釜にくべる。その生活は、日常の生活では思いもつかない様相だった。
 それはどんなに便利になっても、信頼を失っては生きていけない。と、教えられた様相だったのです。
 これからも私の中に芽生えた、生きたい。つながりたい。信頼したい。という深い欲求を大事に、次のアクションに重い腰を上げ続けよう!





2011年5月30日 石巻市雄勝町での炊き出しに参加させてもらって

今回、私は初めて被災地に入り、炊き出しに参加させてもらいました。


実は私の中で被災地支援ということにどこかで忌避するものがありました。

それは被災地外でのお寺さんが言う「悲しみを共にする」という言葉が

どこか薄ら寒い感覚を覚えていたからです。

それは何かそこで叫ばれる「悲しみ」と、

「我が名を称えよ」と願い出た念仏の「大悲」が本当に同じものか疑問に思ったのです。

まるで被災した苦労が1人1人と共有できるとでもいうように聞こえたのです。

それは言葉が見つからなくてそういう言葉になるということはあっても

法衣を着て堂々と言うべき言葉なのか私にとってはなはだ疑問でした。

本当のところはどうなのか、十分に話あう勇気もなかったので

そんなことはないのかもしれません。


しかし、

曇鸞和尚が「五濁の世、無仏の時」に聖道を歩む難しさの一つに

「顛倒の善果能く梵行を破る」と言う言葉を残していることが自分には重くありました。

「お聖教の言葉を答えにして、自らのところでの確かめがない」

という言葉が私を縛り、なかなか人にそれを言うことはできませんでしたが・・・・


とにかく「自分がこれまで説教を聞かせて頂いた人たちから見出した大事な何かを見失うのでないか」

という不安が私には渦まいて支援活動には積極的になれずにいました

それと同時にどうにかして支援活動に対してなんらかの姿勢をはっきりさせなければいけないと感じていました

そうでなければ阪神や中越のときの自分のように本当にわけのわからないまま過ぎ去ってしまうという危機感がありました


そのような感覚を頭の中で言葉に整理しようとしていたのですが

「結局、現地を知らなくては何を考えても絵空事ではないか」

という言葉を世間から、またその世間を生きる自分から言われているような気がして

まずどういう形にしろ、この湧いてくる言葉を始末してしまおうと

仏青同盟の1人であるという立場を縁として

仙台仏青の炊き出しの輪の中に入れてもらいました




随分と長い前書きで申し訳ないですが

そういう経緯でいろんなことを考えて仙台に入ったわけですが

参加させて頂いている最中は

自分ではどう表現しても支援活動の是非を迷わせるようなことになって

嫌な思いを振りまくような気がして自分の疑問を仙台の方と話し合うことができませんでした


一方で、仙台の方の「被災された方の叫びを聞く」ことに親鸞聖人の生き方を見出す

ということは支援活動にとって大事なことであり、また確かにそこに親鸞像があることを感じました

しかし私の中ではそれがお念仏を頂く親鸞聖人と一つになることはありませんでした

私にとってそれは迷いの衆生の1人としての親鸞聖人でした

だからこそお念仏を頂いていかれたのですが、

「被災された方の叫びを聞く」ことがどういうことなのか

いまいち私の中で腑に落ちませんでした


私がひそかに期待していたことは

支援活動そのものが人間の姿を明らかにしていく如来のはたらきそのものであることでした

そうであるならば大悲を受ける同朋としてもろ手を挙げて周りと一緒の行動をとれると思っていました


しかしながら私の中ではやはり念仏と支援活動というのは必ずしも一致しませんでした

支援活動は人間の業として依然として私たちの姿を見失うものである可能性をはらみ

だからこそ私たちの姿を見失う無明を照らしだす念仏に出会う縁となるものでした


「たかが二日三日で何をわかったようなことを言うのか」と自分でも思いますが

少なくとも二日三日の間で感じた分には

私にとって支援活動とは人の営みであり、私たち衆生の姿でした


その被災地での衆生の姿とは

何かしたいという思いが発信される中で

被災されたものと被災してないものと別れ

被災の痛みを思うものと思わないものと別れ

去るものと残るものとで別れていく

私にとって支援活動はそのような大悲される私たち衆生の姿そのものでした


ただ、大悲される衆生の姿として自らの支援活動を見た時のみ

私が見失いたくないと思った念仏がありました


だから支援活動の中でも念仏を頂いていくことが私には必要だと感じました

大悲される迷いの身であることを教えられることが私にとっては大事なことでした

私たちを常に悲しむ如来がいることが一番見失いたくないことでした

「支援」は念仏ではないが、「支援」する、「支援」される衆生の様々な姿を照らしだすのは念仏なのだと感じました


被災された方も

被災地を支援する方も

被災地と直接関係なく暮らす方も

同じ衆生の姿なのだと感じました

道理から言えば当然のことなのですが、

今回のことで私の中でひとつ腑に落ちた気がします。


ここに述べさせて頂いたことは

仙台での活動の後に東京での会議の折の座談で

先輩の意見を受けて起こってきたものです

何か被災地で大きな渦に飲み込まれ

そして外に出て外からの意見を聞いたことで

被災地に入る前の立ち位置に戻ってきた感じがします

ただぼんやりと突っ立っていた場所が

多少なりともはっきりしたのではないかと思います



もしかしたらほとんどの方はこういう問題を

何らかの形で既に明らかにしているのかもしれませんが

私には具体的な支援活動そのものより

それに付随するこの問題が明らかになったことが一番大きなものだったので

ここに述べさせていただきました


結局私は頭でっかちなお客さんだっただけかもしれません

本来のボランティアから言えばまったく迷惑な話なのかもしれません

そのようなお客さんを輪の中に入れて頂けたことを

申し訳なく、またありがたく感じております。

ありがとうございました。










2011年5月14日 「太鼓の響きを被災地に〜ジャンベが町にやってきた〜」



5月14日と15日、震災によって大きな被害を受けた被災地に、アフリカ音楽とダンスという表現で関西のジャンベ(ジェンベ)グループがボランティアにやってまいりました。

メンバーは30才前後の若者8人。躍動感あるパフォーマンスを3箇所の避難所で披露してくれました。さまざまな想いを胸にはるばる足を運んでくれた彼らに感謝しつつ、彼らの思いをお伝えすることでまたこのような活動の機会をもつことができればと願っています。




◆「東日本大震災と私」     山下 正樹


5月13日から17日までの、岩手県でのボランティア演奏旅行の感想と報告をします。


正直、僕自身疲れや、色々な感情をうけて、まだ若干放心状態です。また文章能力のなさもあり、文章での表現での限界もあるので、どこまで書けるかわかりませんが、旅の報告、というより感想を書きます。


私の中に僧侶として、音楽家として震災より後、「被災地に行きたい」という気持ちが元々ありました。しかし、音楽家として演奏しに行くと言っても、どこに何をしにいったらいいのかわからない。そんな中、急遽僕に声をかけてくれて呼んでくれた秋田のSさんというお坊さんがいました。Sさんとは後期修練で知り合いました。毎週、秋田から避難所に足を運んでいらっしゃる様です。(秋田~岩手、これが車で片道五時間はかかるのです。東北は広いと実感)


急遽、メンバーを募り、ツアー先の北海道からメンバーに自分の気持ちや、詳細を電話連絡し、Sさんや、Sさんの周りの方、またSさん意外にも宿泊先を提供してくださる方などから詳しくお話を聞いていました。


演奏するメンバー同士は、はじめましての人もいます。正直演奏に不安もありました。リハーサルは移動している車の中。慣れない車で大阪から片道15~6時間の移動は想像以上に正直大変でした。盛岡南の高速を降りて、知らない土地についてさらにそこから2時間、96キロ先の宮古市。そこには言葉ではいい表せない風景が広がっていました。本当の現場の臭い、空気を吸わなければわからなかった部分だと思います。半壊した家に解体OKの文字、そこにしてある○の赤いマーク。自衛隊の皆さんと、家の持ち主とのやりとりの後です。これが僕にはこたえました。苦しかった。右手には本当に美しい自然、海。左手には全壊、半壊し、ねじれた建物。その中でも営業しているガソリンスタンドが一軒だけありました。これも印象的でした。様々なものが頭の中を流れました。人間の力、人間の無力さ、しかし人間のたくましさ。色々です。


その景色をみて、丘を登り宮古市、のグリンピア(ここは比較的大きな避難所)に着きました。徹夜での運転や先ほどの景色の直後でメンバーも若干放心した状態だったと思います。到着時間がおしていたので、それでも気持ちを戻し、まず挨拶をしどこで演奏をするかを決め、セッティングし、すぐに演奏開始。なにもわからないまま演奏に入りました。田舎なのでほとんど、僕たちのやっている楽器も音楽も知らない方たちです。それでも集まってくれて、みてくださいました。演奏開始。


演奏をしながらまず心にうかんだのは、どうやって楽しんでもらえるかよりも自分たちが楽しめるか、もちろん一緒になって楽しめるか。


今の避難所の状況などもわからないままだったので、他にはなにもありませんでした。僕も北海道人なので、わかりますが、土地柄シャイなんです。関西の人より(笑)


ただ音に心をこめてうつ。ただ真っ直ぐにうたう。それだけでした。遠くまで響くように。




それでも音楽の力はすごいですね。自然と踊りだしてくれる人もあらわれました。楽器紹介をし僕たちの音楽を説明しました。みんなが参加する音楽。


強要ではなく、自然に音楽が僕たちを結びつけてくれる事を祈りながら。


ドゥンドゥンという楽器の皮を牛の皮と説明したら、「ベコの皮だべ?」ってつっこんでくれました。(笑)


演奏は一時間ほどで終わり、少しお話をして、宿泊先の盛岡市にもどりました。


その二時間の帰路の途中、ツイッターをみて隣の山田町で被災にあわれながら、アフリカの音楽をしている方がいて、一緒に演奏出来ないかという連絡がSさんに入った事をSさんからききました。


クタクタで時間も遅いので、明日連絡をとる事に。帰って少しメンバーと一時間ほどお話をして、落ちるように寝ました。


人間は自然を前に弱く儚い。しかし、弱く儚いからこそ、一瞬でも力をあわせ、助けあい、寄り添うことが出来るのが、人間なのかなぁ。目標をもち、築き上げていく事が日常生活ですが、そこにとらわれて、当たり前になってしまっている自分を振り返りました。強くならなくてもいい。一つになんてなれない。生き方や考え方はバラバラでも自分1人じゃ生きていけない。自分で自分は支えきれない。弱いままでいいんやな。そう思いながら寝ました。


二日目、朝六時半に起きて浪板避難所へ向かう。宿泊施設は盛岡市にある真宗大谷派のお寺で、岩手真宗会館というお寺です。(ここではMさんという方に大変お世話になりました。)二日目はHさんという大谷大学の先生に案内していただき、十時半頃に浪板避難所に到着。ちょうど昼食の炊き出しをしているところでした。この避難所は非常に小さな避難所で、Sさん曰わく『お酒が好きな人が集まっている。僕のホームグラウンド的な場所だ』とおっしゃっていました。ここでKさん(被災にあいながらもジェンベを叩きたいと昨日ツイッターを見て連絡をくれた人)と逢いました。彼は隣町の山田町避難所から来てくださいました。


会って山下正樹ですと自己紹介した瞬間、『こんな田舎の果てにまで演奏しに来てくれる人達がいるんだ…』と、涙ながらに言葉をくださいました。僕は嬉しいでもない、哀しいでもない、なんとも言えない深い感覚になりました。ただ、涙がでた…。


Kさんのジェンベは津波に流されたらしいのですが、その事を聞いて東京の知らない人が無償でジェンベを提供してくれたとの事でした。(後から聞くと、僕も良くしっている東京の楽器屋さんからという事がわかりました)そして、ジェンベを叩きたかったが、どこで叩いたらいいのかもわからなかったと言っていました。それほどまだ現地は混乱しているという事だと思います。


避難所の方たちに挨拶をし一緒に演奏開始。小さい女の子達が一緒に踊ってくれました。ブレイクダンスをしていたと思われるダンサーも乱入、一瞬で演奏が終わりました。そのあと、ここで地元のせんべい汁をいただきました。とっても美味しかった。ギニアの言葉では筋肉汁だね(笑)と笑っていました。挨拶をし、隣町の山田町避難所へお昼頃に移動、この時僕はKさんの車に載せていただき、30~40分2人きりでお話をしました。彼は間一髪で助かったと言うことでした。警報がなった時『みんな普段から津波の警報がよくなっていたので、今回も同じと思い逃げなかったんですよね』と言っていました。『まさに今からが復興なんです。今までは、何も出来なかった』『はじめの10日間はまるで戦場、食料をさがし子供に与えるので精一杯だった』彼は一歳のお子さんがいるそうです。そして『ここに実家があったんです』と指をさして教えてくれました『今は津波や災害の事を吐き出したい、しゃべりたい』との事でした。今一番全国のみんなに伝えたい事はなんですかとたずねると『観光でもなんでもいいからこの状況をみんなにみてもらいたい、そしてこの震災を風化させないで欲しい』との事でした。まずはじめに必要だったのは人命であり、食料であり、毛布であり、燃料であり、まさしく今これからは、音楽や娯楽、自分たちが目標を持っていけるモノが必要という事でした。今回のこの演奏も二週間前には、笑顔で聴いたり、叩いたりする気持ちになれなかったと思うとの事でした。最後に『今回の被災者は日本の人みんななんです』と語ってくれました。そうしているあいだに、隣町彼の地元の山田町避難所に到着。ここには被災した場所から運んで来て、みんなで洗って飾ったという大きな鯉のぼりがたくさんありました。花が沢山咲いていてきれいなところでした。Kさんのご両親も来てくださり、Mさん夫妻も来てくださいました。ここでもみんなで歌い、踊り、叩きました。メンバーもやっと息があってきて、すごい盛り上がってくれました。Kさんに、また来るし、ジェンベ叩いていこうと誓いました。


ここでは、演奏前後時間があり、子供達と鬼ごっこをしたりして遊びました。


夜になり、盛岡市へ戻り、お風呂にはいり、Sさんにお酒をご馳走になりました。メンバー一人一人、改めて自己紹介をし、自分の思っている事を語りあいました。ようやく、すこしほっこりしました。ここでの語らいはとても大きな意味があったなと思います。Sさんからも、毎週通う中で、1日1日変化する避難所での事も聞く事が出来ました。


『自己満足でもいい、僕たちが満足出来なかったら、観てる人になにを伝える事が出来ようか』『被災にあわれた方に何かをしてあげようとかおこがましい事で、憐れむのではなく、同じ人同士として出逢っていく』『悲しみを、人間を思い返してみよう』そんな気持ちになりました。これから仮設住宅への移動になってきます。これがまた新たな問題になる危険性を人間は持っているといいます。集団生活から一人になった瞬間、今までおさまっていた無力さや、絶望感が一気にこみ上げてくるといいます。これまで、避難所で一緒に生活している時には、我慢出来ていた事が、仮設住宅へ移り一人の時間を持つことで、今度は自分を護るため、壁をつくってしまうということではないでしょうか。これは我々が普段からもっている人間の根性だと思います。強さであり、弱さでもあるんだなと。プライバシーが守れる意味で仮設住宅への移動は素晴らしい事です。しかしあくまでも仮設であるという事もあります。


翌日また1日かけて帰ってきました。帰る道中、正直ホッとしてくる自分がありました。帰る家がある。この事の大きさ。正直今回の演奏ツアーでわからない事が増えた気がしました。答えを慌てて探そうとはおもいません。一生涯かけて問い続けていこうと思います。


実はわからない事の方が多い、しかし僕もみんなも、残念ながら自分のモノサシでしか物事をはかれないのではないでしょうか。自分のモノサシを一瞬で壊されてしまう事があった時、『生き抜く』という事の意味の智慧をそれぞれの『よりどころ』からいただき、同時に無力で愚かな『私』というところから、見つめなおしていくしかないのかなと感じました。それは、いつでも、どこでも、誰にとっても、変わらない事実ではないでしょうか。このような想いをこの演奏旅行は僕に与えてくれました。




◆「岩手県でのパフォーマンス」 平山 真実


本日は5月20日(金)、ちょうど出発から一週間経ちました。


先週の金曜の夜に大阪からみんなで車に乗って出発。


月曜から火曜に変わってすぐの夜中、家に帰ってきて・・・


出発の時、その日一日は自分は何を思っていたかなぁと考えても思いだせません。


たぶんまだ被災地について想像しかできなくて、練習をしていないライブについてどれだけのパフォーマンスができるかと心配をしていたと思います。


帰ってきてすぐの気持ちの感想を書けば良かったかもしれません。だけど私にはできませんでした。


帰って来てから、私の仕事は毎日たくさんの方に会う機会が多いので、会ったらまず私が岩手県へ行って来て感じた事を伝えてから仕事をしました。


すると私自身の頭に残ってることが明確になってきて、感想文を書こう!とようやく思えました。


私は普段からアフリカンダンスでパフォーマンスをしています。そして何年も前から子供達にダンスを教えて、フィットネスで老若男女すべての方と接しています。




きっと好きなんですね。人と接することが…。




ですから今回岩手県へ行っても何も変わらずいつものように、自分のままで行こうと思っていました。


15時間かけて岩手県に入って、ライブの時間がおしていたにも関わらず、今回のライブの話を作ってくださったSさんが遠回りをして見せて下さいました。


大津波に襲われた町です。


私は初めて見た町なのでそこにいつも何があったのか知りません。


なので瓦礫がいっぱいという印象を受けました。


海の臭いと色々な臭いが混じり、なんとも言えませんでした。




しかし現地の人と関わり、話を聞くとそこは瓦礫ではなくみんなの家やいつも通った店、友達の家それが壊れただけの思い出でした。




それを肌で感じるとグッと悲壮感とゆうか怖さが込み上げてきたけれど、私には現在この町に住んでいる方達の今の気持ちと同じにはなれないし、遠くに住む家族の気持ちにも同じにはなれない。


だからといってそれがダメだとか私はそんな風には思いません。




ここに縁あって来させていただいて、おこがましいけれど自分には何ができるか。


同じように哀しみを抱くことはできないけれど、何かできるのではないか・・・




それがアフリカンのパフォーマンスで心が和らげばと自分自身に自信を持たせました。


何を感じても子供達と笑い合う事。


何気ない会話をおばあちゃんやおじいちゃんとする事。




自己満足かもしれません。


だけど、私は今回の岩手県ではこのように思い感じました。



◆「岩手県でのパフォーマンスと、福島県での動物ボランティアについて」   鶴田 真由美



私は岩手県でパフォーマンスをさせて頂いた事と、それ以前から参加していた福島県での動物ボランティアについて書きたいと思う。


震災後、被災していない自分に一体何が出来るだろう。


そう考えていた人は数多いと思う。


メディアが伝える情報が確かなのか疑心暗鬼になりながらも、なるべく震災の情報を取る日々。


パソコンやテレビの中では私には想像もつかない悲しみ、そして力強く生きる人の姿があり、しかし私の日常は3月11日以前とほぼ何も変わらない。


そんな中、私を福島県に向かわせたのは原発周辺20km区域内の動物達の姿だった。


餓死した、あるいは餓死寸前の動物の姿はあまりにも悲しく、言葉では表現出来ない衝撃を受けた。


電気を使っていない動物が、何故一番苦しんで、ただ亡くなるのを待つだけなのか・・・




それを見た日から、自分が食事で空腹を満たす度に福島の動物達の飢えと乾きの苦しみを想像し、帰らぬ飼い主の帰りをじっと待ちながら亡くなる犬や猫を想った。


しかし想っていても彼らの飢えは満たされないし、私が落ち込んだところで彼らの命はひとつも救えない。


時間がない。こうしている間にも苦しみ亡くなる命があるなら、何も出来ないかもしれないけど、とにかく行ってみよう。


それは「動物の為」や「被災地の為」とゆうよりも自分の衝動に突き動かされた結果だった。


実際に訪れた福島県は、日常が流れていた。


マスクは付けているものの、子供達は学校に元気に通い、花は咲き、山は美しい。


何となく、自分が持って来た大袈裟なマスクを付ける気にならなかった。


そりゃそうだ。


皆ここで生きてるんだ。


毎日の生活があり、今までのようにこれからもずっと日々の生活が続くのだ。


放浪犬を探しに、立入禁止区域になった原発20km周辺を訪れたが、そのすぐ隣では畑を耕す農家の姿があった。


放射能汚染は調べてみないと分からないが、風評被害も叫ばれているこの状況で、農家の姿はとてもたくましく、力強さを感じた。


保護された動物は皆人懐こく、飼い主が側に居ない不安からか、遊んで欲しくて仕方ないといった様子。


ここに居るのは命をつなぐ事が出来た幸運な子達だが、慣れない多頭での生活や精神状態から来る体調不良の子も居る。


保護された犬や猫も、ここで暮らすのがいつまでになるか分からない中、楽しみにしている散歩をなるべく長めに出来るよう、そして一頭ずつちゃんと構って遊んであげる。


そうしたお世話を、平日はボランティア団体の方ひとりで行っているという。


原発の影響で福島にはボランティアが集まらないのだと聞いた。


遊んで欲しくて、ゲージから出して欲しくて、爪から血が滲む犬の足を見て、命が生き続ける為に食事等の必要不可欠なもの以外にも大切なものがあるんだと改めて感じた。


そして、二度目の福島県の訪問と同時期に今回の岩手県でのパフォーマンスについて声を掛けて頂き、参加したいと思った。


必要とされている場所で自分が何か出来るなら是非行きたいと思った。


実際に訪れた岩手県では津波の被害を受けた傷跡が広がり、福島県でも目にしたこの光景が、福島県から沿岸部に沿ってずっと続いていると思うと被害の大きさを実感する。


今回のパフォーマンスは初対面のメンバーも何人か居たが、いつも通り心の底から楽しんで踊る事が出来た。


いつもライブを始める前は不安があっても、始まると全てがエネルギーに変わる。


パフォーマンスをさせて頂いた避難所ではそれぞれ、ほんの少しだが避難されている方とお話ができた。


「もうすぐ仮設住宅に入れるが、いつまで続くか分からないし、夏の暑さや冬の寒さに耐えれるのか心配だ。」


「二ヶ月経って、ようやく今音楽や娯楽が必要だと感じる時期だった。」


「ここは祭りの時に太鼓を叩くんだよ。今日は太鼓の音を思い出して、本当に楽しかった。」


「ありがとう。元気が出たよ。」


この言葉達は、私が現地に来たから聞けた言葉。


本当に元気になった人はどれくらい居たのか、それは分からないけれど、私は一人でもそう感じてくれる方が居た事が自分自信の励みになったし、絶対にまた来たいと思った。


私には震災で大切な人や家を失った悲しみはとうてい想像しきれないし、津波の恐怖を同じ様には感じる事が出来ない。


しかし、こうして実際に被災に立ち、津波の被害を目の当たりにし、匂いを嗅ぐ事で感じる事が出来る。


ここにある恐怖や悲しみや前を向く姿を感じる事が出来た。


それは、私にとってとても重要な事だった。


感受性のある私達には生き続ける為に、心をかきたてたり満たすものがとても大切なんだ。




最後に、二度目に訪問した福島県での動物ボランティアで出会った青年について書きたい。


彼は、ボランティア団体に自分の猫を預けてお世話になっているので週の半分はボランティアに来て動物の世話をしているという。


口数の少ない彼と丸1日一緒に居て、彼の境遇を知る事が出来た。


彼は原発周辺10km県内に住んでいたが、2~3日で戻れると言われて避難し、自宅に戻れたのは二週間後だった。


置き去りにした5匹の猫は1匹が餓死し、もう一匹は保護した後に亡くなったそうだ。


物静かに話す彼が唯一表情を歪めた。


その後、必死でペットと住めるアパートを探し、家族バラバラで猫と暮らしている。


職も失い、一時帰宅で持ち帰れる荷物には限りがある為、家には家財道具が一切なく、唯一こたつを1つ購入したらしい。


寒い地域では猫にこたつは欠かせませんから、と笑って話をしてくれた。


自分の生活もままならない彼が、片道一時間半をかけて2日に一回ボランティアに来ている。


彼は決して自分から、自分の境遇について話さなかったし、自分は大変なんだという言葉も話さなかった。


被災者である彼が、他人の痛みや弱者である動物の痛みを共有しようとし、行動しているこの姿に私は強く胸を打たれた。


震災と原発事故は多くのものを奪った。


それは決して取り戻せるものでは無いし、悲しみは悲しみのままで消す事の出来ない事実である。


しかし、生き続ける事と同じ様に、これからもずっと続いて行く復興の道のりへの歩みを「感じる」為にまた必ず現地に来たいと思う。


今回、岩手県に行くきっかけを下さった方々に心から感謝しています。


ありがとうございました。






◆「感想」   神戸 真季



2011年5月14日-15日の2日間で、岩手県宮古市田老・大槌町・山田町にある避難所へ行って、アフリカの太鼓とダンスの演奏をしてくることができました。


まず、こうして関西から岩手まで、呼んで頂いたこと、演奏会の手配等の準備をしていただいたこと、Sさんをはじめご支援いただいた方々に感謝します。


そして、Hさん Mさんご夫妻には宿泊所の提供、避難所への案内等で大変お世話になりました。ありがとうございました。


頬の赤い小柄なお母さんたち、腰には前掛けを巻きつけてにこにこ顔で演奏を観ていてくださいました。こどもたちは珍しいものを目の当たりにしたような顔で、いやぁすごい!と手を叩いてくれたおっちゃんがいたり、警備のための警察官も体を揺らして聴いておられ 、ああよかったと私はまず安心していました。


この太鼓のリズムやダンスは見る人を楽しませたり力づけたりするものだと信じて、避難所で演奏したいとやってきたけれど、たくさんの人が亡くなられて身内や友人 毎日の生活 家や仕事を失くしてしまった人たちの心境も計り知れなく タイミング的に早くないだろうか とか 聴いてもらえるのだろうかと不安だったのです。 


手探りながらも3か所の避難所を順にまわって、今回集まったメンバーでの演奏も段々とまとまって 見る人との距離も段々と近づいて 気持ちよく演奏することができました。


演奏前や終わってからのわずかな時間に子供たちと遊んだり、たわいない事でも土地の人たちとお話することができました。小学生の男の子たちは、私たちの関西弁がおもしろい様子で よく笑っていました。まだ低学年くらいの女の子たちは 人見知りすることもなく、とても積極的に話しかけてきてくれました。「どうして裸足なの?」「どこのひと?」「何月生まれ~??」といかにも女の子らしいテンポの良いおしゃべりをしていると、一番年の小さかった5歳の女の子が「あのね まいのお家 ながれちゃったの」と言いました。わたしは返す言葉を見つけられず、「そうかあ~」と肩を撫でてあげることしかできませんでした。年の大きい女の子が 話題を代えて 楽しいおしゃべりを続けていましたが、会ったばかりの私たちに向けた言葉、怖くてそれ以上の話を聞くことができなかったことと どうにもしてあげられない自分の非力さがやりきれませんでした。


港や町の津波の跡も まだまだ目に見えて残っていましたが、震災直後の報道されていた船や車がひっくり返って、道や家の境もわからないような様子から比べると、私は随分と片付いたという印象を受けていました。町の人と話をしていて、きれいだと思って眺めていた湾内には、津波がくるまでは たくさんの筏が浮いていて 魚介類の養殖場だったということ 津波の被害にあっていない家々に住む人も 食べるものを買えるお店がまだ無いということを聞いて、震災までのここの日常を知らない私には見えてこない被害がまだまだあるのだとわかりました。


今回 特に印象深い出来事がありました。


津波に家も太鼓も流されてしまったという 山田町のKさんと、2か所の避難所で共に演奏をして回ることができたことです。


私たちのことを知って、自分も太鼓を叩いているので 一緒に演奏したいと 連絡をされてきたのですが、とても辛い経験をされ心痛めた彼のアクションと そのツールとなった太鼓のこと 好きでやってきた太鼓の音楽のことを考え そしてその力を改めて実感できた出来事でした。


演奏を終えて、戸惑う場面も 何度かあったけれど 来てよかったと思うことがたくさんあって、これからも 町の変化を見てゆきたい 出会った子供たち 人たちに また会いたいと思いながら 大阪へ帰ってきました。


岩手県は 大阪よりも1ヶ月ほど季節が遅いようで ちょうど 桜や色々な春の花の盛りでした。季節の移り変わりのように、被災された人々の気持ちもどんどん暖かくなっていって欲しいと思います。  







◆「旅の感想」    酒井 亮




まず。今回、お声をかけてくれた正樹さん、Sさんにありがとうと言いたいです。震災が起きてしばらくはとても悲しかったです。毎日報道があり、自分の身に起こったかのようにとても悲しかったです。なにかできないかな、色々と感じ考えを巡らせるしかできなかったです。


報道の数が段々へっていく中、僕の中でも風化という方向へ向かっていくのを感じ、苛立ちました。


そんな時に今回の旅へ誘っていただき、迷わず返事しました。自分にもどんな形であれ、直接現地の人と接することができるというのは正直うれしかったです。自己満足でしかありませんが。


旅を終えて満足できたか、達成感はありましたが満足という感じにはなりませんでした…


色々と見させてもらい、感じ、結局のところ、また日常に戻っていく。それでは到底満足なんてできない!現地での経験はどれもとても大きかったです。避難所の方々、子供たち、Kさん。Kさんの流した涙が僕の心を何故か温めてくれました。おかしいですよね。


避難所の方々はみんな笑顔を見せてくれて、でも確かにそこには切ない色があって、元気に走り回る子供たちにも。


言葉では言えない気持ちしかこみあがってきません。なんなんだろう?


被災地の人々から何故こんなにも温もりを感じるのだろう、ごめんなさい


ありがとう。今ふりかえれば、ああだったのかな、こうだったのかなと自分の気持ちを分析することはできるけど。その時は、自分の中で小さな風がただ吹き続けているだけでした。でも…


その小さな風は、きっと自分にとってとても大切なものだと思うんです。


今回の被災者は日本人全員。たしかにそうかもしれません。痛みは伴わないけれど、日常ではないけれど…。


この旅で僕は、出会ったみんなから心をわけてもらいました。もちろんバンドのメンバーからもです。言葉にするのは難しいですね…


Sさん。談合っていいですね!色々な人がいて皆ちがい、みな優しい。


話したいことがたくさんできました。


僕にとって今回の旅ははじまりです。満足なんてできません!


これから先、現地に行くことがもし、なかったとしても。僕にははじまりです!最後に演奏させてもらった避難所。Kさんの話しをきき、被害を見たあとだったので自信というか、気力というか、なくしてたんですけど


大量のこいのぼりと子供たちのおかげで、おもいっきり演奏することができました。あの空間が、なぜか僕には 懐かしい?感じがしました。


思いっきり失礼だと思うんですが、自分にもわかりません。


こんなこと言って怒られるかもしれないですね。


でも、やっぱり言いたい




みんなで復興したい!


みんなが復興したい!


ぼくを!復興したい!




いろんな場面で、いろんな気持ちで、いっぱい涙が出た旅でした。


わからないことだらけで


わかったことなんてちっともないけど、たくさんのものを感じさせていただきました。


ごめんなさい




ありがとう。






◆「感想文」   小濱 伴彦



僕たちが大好きなアフリカの音楽は、パワーと活力、躍動感のある音楽です。震災にあった東北、日本を元気づける事ができる音楽だと僕は思っています。


今回ボランティア演奏に参加させて頂いて、被災地の現状に言葉が出なくなり、一緒に叩いた山田町のKさんの話しを聞き、肌で被災のシリアスな現状を感じました。


被災者の方達にアフリカ音楽のパワーが少しでも届いてくれていたらうれしいです。


今回だけではなく継続して音楽で元気を届けたいと思います。


たくさんの素敵な方達との出会いや暖かい心にとても感謝しています。


ありがとうございました。




◆「感想文」   仲谷 梓



今回岩手県でのボランティア演奏という事で参加させて頂いて、


正直行く前は色んな事考えながら岩手県へ向かいました。実際に目で見た被災地の状況は言葉を失う光景でした。


けどそこでは色々な方たちとの素敵な出逢いがあったり被災地の方たちとお話することもできました。その中で被災者の方達の強さや優しさを凄く感じ、逆にこちらが元気づけられた様に思います。


皆さんと少しでも時間を共有できたこと、音楽を通じて楽しめたこと嬉しく思います。


ありがとうございました。






















2011年5月5日 仙台仏青と共に。ありがとう。仏青一同より


先日は、大変お世話になりました。


個人的な参加にもかかわらず、仏青の皆様には笑顔で迎えて頂き、感謝いたします。


本当に避難所へ行く道のほとんどが津波の被害でした。 畑にはまだまだ数百台の車が無残な姿でありました。

自衛隊の方たちもちらほら。

この畑は元に戻るのだろうか・・・・。


少し気持ちがへこみながら、目的地の避難所となっている山元町の山下第一小学校へ向かいました。

お風呂プロジェクトと炊き出しを早速、開始しました。

蒔きに火をつけて、炭とマメタンをおこしました。炊き出しメニューは煮物・やきとり・ウインナー・昨日のケーキ・豚汁でした。

みんな楽しみにしていたようです。子供たちもよってきました。ナンコツある?と笑顔で聞かれました。

さてお風呂が沸き始め、小学生の女の子たちが1時間ぐらい?長湯してました。楽しそうに友達と3人でおしゃべりしながらはいってました。役所の方も入って頂きました。お疲れ様です。

それから、手作り念誦を子供たちと一緒にやりました。 みんななついてきて、遊びながら作っていました。

と、そのとき余震です。ガラス窓がゆれて、ものすごい音でした。しかし、子供たちは何も悲鳴を上げることなく、念誦を作っていたのは、驚きです。もう何度もあるんでしょう・・・・。


それぞれが、共に楽しみ、笑い、普通の生活ができる様に・・・・。

























2011年5月5日 進まない町

地震直後、離れた関東のテレビから流れるのは平常心でいられないくらい胸をうたれる被災地の映像ばかりでした。

今もそんな映像が脳裏に焼き付いていますが、日に日に減っていく被災地のニュースに、たくさんの不安を抱いて向かいました。


市内から野蒜海岸、東松島へ進むに連れ

地震で崩れたままのビル

津波でさらわれ、何も残っていない平らな土地

たんぼに残る車

両脇が水に浸る道路

崩れた木材や家財が散乱したままの海岸

胸がぐっとつまる、ことばにできない苦しさでした。



二ヶ月弱経った今も、こんな手つかずの場所があったとは。。。



到着と同時に手際よく、チームワークよく準備された

皆さんのBOPお風呂に避難所のみなさんと同じように驚きました。



避難してたって女の子だもん、日焼けしたくないから助かる!日焼け止めを欲しがる女の子や

まだ電気がなくて毎晩階段を落ちるから、と手動ランタンを手にとるお父さん。



野菜炒めのピーマンに、地震後初のピーマンだ!と声をあげたり

焼鳥食べたら、飲みたくなるなー

デザートまで用意してもらえるなんて夢みたい!

今、仕事中のお父さんにも食べさせてあげたい!

そんなひとことひとことが胸に響く

痒いところに手が届く…各地での声をカタチにした仏青らしい無料バザーや炊き出しにも感動でした。


胸のうちには強い苦しみや不安を抱えているだろうけれど

関東で自粛自粛!というのが恥ずかしくなるくらいの強さを感じました。

何ができるだろう?

何かはできるかな?

2日間で一緒に笑いあうことができたかしら。



私にも何かできないか?

単身で飛び込んだ私を迎えていただいた

あたたかい仙台仏青のみなさんに感謝します。

ありがとうございます。

また参加させてください。

それまでは、関東でこの経験を伝えて行きたいと思います。

応援しています!