福島の今(Y.S)

 地震と津波で多くの方が亡くなられ、まだ見つからない方がたくさんいらっしゃいます。そして今ここは放射性物質が拡散し、いのちがおびやかされ続ける土地になりました。もう安心して住むことができないのです。土地からは放射線が出続けています。外を眺めればそこには放射性物質が降り注いでいる大地と海があります。食品に多くの放射性物質が入っているかもしれない。蛇口をひねっても安全な水が出てきているのか分からない。ここには今までには存在しなかった、間違いなく危険のある放射性物質が存在しています。水も、空気も、安心できません。もし今この事実から目を背け生活すると、いのちに危険がおよびます。自分の判断ひとつで家族を被ばくさせていまいます。そして自覚なく私たちは被ばくしています。子どもたちは自然の中で遊ぶのが当たり前の土地でした。しかし今は放射性物質があるから外に出られません。もうおびえながら生活するのは限界です。

 あの日からずっと、「原発さえなければ」という言葉を耳にしない日はありません。今私たちの身に起きている事は、もう取り返しのつかないことだと思います。放射性物質が拡散して、以前の様な環境に戻すことは困難です。

 次ぎ、どこでこのような事が起きてしまうのか。これ以上取り返しのつかない事態になってからでは遅いと思います。そして今この瞬間、被ばくしながら苦しんでいる人々がいます。










長崎の方との交流(Y.S)

 3月11日からひと月程経った頃、長崎県に住む友人が、震災直後ご自坊で開催した子ども会において被災した方々宛として色画用紙にメッセージを記したものを、支援物資と共に送って下さいました。また子ども達がメッセージを記している様子や、子ども達の集合写真も送ってくださいました。早速私はそれらを自坊の掲示板に貼らせていただき、数か月の間一度では張りきれない程の多くのメッセージを交代で貼らせていただきました。その後、現在では毎月手づくりの便箋に子ども達一人一人が記した手紙をまとめて送ってくださいます。手紙と共にその時々でプレゼントも同封されており、風邪が流行する季節にはマスク、年始にはカレンダー、寒い時期には手袋などが入っています。長崎の子ども達からお預かりしたその手紙は仏青メンバーと共に仮設住宅へお伺いし、お念珠作りや喫茶コーナーを設け交流させていただく中で手渡しをしてきました。手紙を受け取った方々は皆、顔をほころばせながら読んでおられました。そして中には長崎へ返信をお送りし、子ども達と文通をされている方もおられるようです。

震災当日から今まで、誰も助けてくれないのではないか、忘れられているのではないかと感じる事がとても辛く苦しい事でした。しかしその様な状況の中において、福島から遠く離れた長崎の子ども達が様々な事を想像し書いてくださったその温かな思いが、私たちを何よりも笑顔にさせてくれました。今、震災から多くの月日が過ぎましたが、日が経つにつれ私たちの力だけではどうすることもできない困難が明らかになっています。しかし、温かな思いの中にいると感じることが出来た時、私たちは困難の中にあっても生きようと思う事ができるのではないかと感じています。










相馬市から(Y.S)

 震災から既に1年以上が過ぎました。町の中の壊れた建物は撤去され更地となり、津波によって破壊された町も少しずつ片づけられています。しかし、以前の様な街並みに戻るのがいつになるのか、また以前の様に住むことが出来るのかさえ分かりません。大地には放射性物質が降りつもっています。放射線を出し続ける大地の上でこれからずっと生活しなくてはならない状況です。いのちの側にあってはならない放射性物質がすぐそこにあります。ある方は、「これからの時代は放射線とうまく付き合っていく時代なのだ。」とおっしゃいました。うまく付き合っていけば、放射性物質はいのちの側にあっても大丈夫なのだと私たちに言い聞かせようとしているように聞こえました。これは「核の平和利用」という言葉と一緒のように思えます。とても恐ろしい発想だと思いました。

 今、放射性物質の中で暮らし、毎日泣き、怯えながら生活しなくてはならない状況があります。福島第一原子力発電所が爆発事故を起こしたことを、「FUKUSIMA」と表記し、歴史の中の一つの出来事として終わらせてはいけないと思います。今私たちが気が付かないでいつ気が付くことができるのでしょうか。後々のいのちが放射性物質の中で生きなくてはらならい状況はすでに出来上がっています。せめてこれ以上ひどい状況にだけはなってほしくありません。










会津若松市から(S.S)

 今でもついこのあいだの事のように思い出される、3月11日の東日本大震災。悪夢が現実になった日でした。

 テレビを通して信じられないような映像が、次々に伝えられました。すさまじい津波の破壊力。そして原子力発電所の爆発。それからは、テレビとインターネットからの放射能に関する情報収集が日課となりました。風向きから放射能の拡散を予測しているサイト(事故当時、公開されることの無かったSPEEDIの予測データとほぼ同様の内容を公開していた)を見つけ、会津もじきに汚染されることを知りました。予測が外れてくれることを願いましたがそれは叶いませんでした。

 15日午後から次第に放射線量が上昇し、22時20分に2.57μSvを観測。明朝には0.6μSvまで下がりましたが、それでも放射線管理区域の基準値と同等の放射線量の中で生活することを余儀なくされました。その日、子供が学校から持ち帰った手紙を見て目を疑いました。「会津若松市の放射線量は、0.06μSvです。健康に影響はありませんのでご安心下さい。」それは、市の教育委員会からの手紙でした。故意か偶然かは分かりませんが、線量が上がる前の、実際とは一桁違うデータをもとに「ご安心下さい」とはひどすぎます。早速、学校と教育委員会に正確なデータをもとに対応してほしいと訴えました。そして妻と交互に、しばらくは休校措置が必要ではと電話で申し入れしました。線量の高い今が被曝を防ぐには大事なのだと訴えましたが訂正の文書は出ず、休校にもなりませんでした。知人には、放射能対策と出来れば避難を呼び掛けましたが、あまり反応はありませんでした。大熊町の人達が避難してきていることもあって、会津は安全だという感覚が強かったのだと思います。

 今回の原発事故を経験し、また長田さんのお話をお聞きして、あらためて私たちがいかに原子力について無知であったかを知らされました。安全神話と必要神話にのせられて、これまで原子力発電を容認し、多くの被曝者と汚染物質を生み出してきたことを恥ずかしく思います。ここで原発をやめなければ、この事故により被害を受けた多くの人々の苦しみが無駄になります。「原発事故で死んだ人はいない。」などという人がいますが、福島県民15万人が避難を余儀なくされ、なれない避難所ぐらしで何人の方が亡くなったのでしょう。そんな犠牲では足りないのでしょうか。「いのちと放射能は共存できない」ということを強く認識し、憲法9条によって戦争を放棄したように、まず原発をやめる決断が必要です。電力不足や雇用の問題は原発が無いことを前提に対処していくべきです。

 宗教とは、人間の愚かさをあきらかにする教えだと思います。人間がどんなに進化し科学技術が進歩しても、人間は完璧にはなれないし完璧なものは作れない。可能な技術を持ったとしても使うべきではない技術もあるということを宗教に学ぶ必要があるのではないでしょうか。原発はその最たるものだと思います。

 最後に「原子力行政を問い直す宗教者の会」の今後の活動に期待し、微力ながら協力させて頂きたいと思います。

















仙台教区の日「福島を生きる―今、そしてこれから―」に参加して (E.M)

 2011年3月11日、宮城県沖を震源地とした東日本大震災が発生しました。この度の地震・津波・人災としておこった原発事故により多くの方々が傷つき、そして亡くなられました。半年を過ぎてなお悲しみは癒えずにいます。東日本大震災により亡くなられた方々に対し、謹んで哀悼の意を表しますとともに、被害を受けられました多くの方々に対し衷心よりお見舞い申し上げます。

 私はこの度の震災に、被災地から遠く離れた岐阜県で出遭いました。現在、私の住んでいる下呂市へ福島県浪江町からご家族で避難して来られた方との出会いがあります。その方は、2年前に念願のマイホームを建て、仕事も安定してきた時に震災に会われました。震災の翌日、自家用車で奥さんと幼いお子さんを乗せて、勤務していた会社の支店がある岐阜県下呂市へ避難してみえました。その方が「寂しいけれど、もう故郷には帰れない」と語られた言葉は今でも重く受け止めています。今回は、仙台教区仏教青年会の仲間の呼びかけと、避難して来られた浪江町のご家族との出会いがあり参加しました。

 当日は、全国各地から足を運ばれた参加者で真宗本廟(東本願寺)視聴覚ホールは満席の状況でした。限られた時間の中で、報告として小丸洋子さん、佐々木道範さんがお話し下さいました。その中で、私が印象に残った言葉を紹介します。

 小丸洋子さん「3月12日、携帯電話も使えない、情報が伝わらない状況で、役場の方から今すぐ逃げて下さいと言われた」「故郷を離れることはとても辛かった。離れる時は仲間と肩を抱き合い、お互い再会を誓って涙した」「原発は人間関係など様々なものを奪ってしまった」。

 佐々木道範さん「今、福島県の人たちは苦しみ、悩み、悲しんでいます。それでも、なんとか立ち上がろうとしています」「保護者の方は、自分の大切な子どもを内部被爆させてしまったと罪悪感の中で生きている」「福島県から避難出来ない人も辛いし、県外へ避難している人も辛いのです」「メディアでは明るい復興の話題が出ているのも確かです。しかし、福島県は時間とともに忘れ去られ、子どもたちのいのちが蝕まれていく状況にあります」「福島県の復興は時間がかかります。現在、放射能の中で生活している人がいます。そういう人がいるという事を忘れないでほしい」。

 私は、お二人の報告と山内知也教授の講演を聞き、あらためて復興までの道のりの険しさを知りました。また、同じ時代に生きるひとりとして他人事として終わらせていけないと心に刻みました。この受け入れがたい現実を受け入れながら、それでも生きようとしている人のいのちの強さを感じ、いのちはどのような状況であっても輝き続けようとするのだと教えられました。今回、仙台教区の日に参加した私の責任として、聞いた言葉、福島県の現状を、私が身を置く高山教区の仲間をはじめ多くの方々にお伝えしなければなりません。また、息の長い支援というより、息の長いおつきあいが必要なのだということを痛感しています。

 私は、支援する側、支援される側という立場を超えてひとりの人間としてつながっていけることを願いながら、私に出来る事を尽くしていきたいと思います。














被災地に生きる (S.M)

 あの日、僕の町には大量の放射能が降りそそいだ。大地、空気、水、家、多くの物が汚染された。母親たちの母乳からは放射性物質が、何も知らずに外で遊んでいた子供たちの尿からはセシウムが検出された。今、子供たちの首には放射能積算線量計がぶら下っている。国も学者さんたちも「大丈夫だ」と言っていたのになぜ・・・。やりきれない思いと、国や東電に対する怒りでいっぱいだった僕に、子供たちのまっすぐな眼が訴えてくる。「僕たちはどうしてこんな目にあったの?あなたがこんな世界を作ったのでしょう?」そう言われているようで申し訳ない気持ちがこみ上げてくる。原発があって当たり前、原発は安全だと思って歩んできた僕の人生こそが、今子供たちを苦しめているのだとようやく気付かされた。マスクをしている子供たちが、外で遊べない子供たちが、僕を照らし出してくれた。子供たちのお蔭で、無関心に生きてきた僕は助けられた。子供たちに感謝し、懺悔し、歩み出そうと思う。

 子供たちのいのちを守るために、子供たちの未来を守るために、そして僕がいきいきと生きるために、何ができるだろう?手探りの中で少しずつ動き出した。自坊の仏青(TEAM二本松)のメンバーとNPO法人を申請し、市民放射能測定室を立ち上げた。仙台仏青や全国の支援者のあったかい思いに勇気をもらい、食品の測定、町の除染活動、子供たちの一時避難等ができるようになった。僕らの活動が絶望の中でもがき苦しんでいる福島の人達の光になることを願います。


 福島の空が大地がいのちが泣いています。福島が叫んでいます。声にならない悲痛な叫びを聞いて下さい。みんなの元気を分けて下さい。福島を助けて下さい。

 福島の人達が悲しみと怒りの中で一歩ずつ歩み出そうとしています。何十年何百年かかるか分からないけれど、いつかもう一度いのちがいきいきと生きられる福島を取り戻したい。

 あなたが青い空を見上げた時、思い出して下さい。同じ空の下に放射能に汚染された台地の上で立ち上がろうとしている僕達がいることを…。










故郷「福島」(S.R)

 3月11日、自宅で預かっていた幼児におやつの準備をしていた時でした。ただ事ではない長く激しい揺れ、テーブルの下で子供たちを抱きかかえながら、テーブルごと体が床の上で大きく左右に滑るのがわかりました。何かが倒れる音、落ちる音、割れる音、腕の中で泣き叫ぶ子供たちの声も聞き取れないほどの騒音の中、外から入ってきてくれた男の人に助け出されました。外は猛吹雪、大地の揺れる「ごぉー」という音が不気味に鳴り響き「地球が怒っている・・・。」そんな感覚に襲われたことをはっきりと覚えています。


 あの日から7か月、福島はいまだ「復興」という言葉とはほどとおい深刻で厳しい状況の中にあります。放射能に汚染されてしまった大地、空気、水。野菜・米・果物・肉・魚などから次々と放射性セシウムが検出される事態に、食と職を奪われ多くの人間が苦しんでいます。安心して生活できる空間も無く、見えない放射能に怯える日々が続いています。


 不安に駆られる毎日ですが、こうしている間にも子供たちは放射能にさらされています。立ち止まっている時間はありません。とにかく今は、福島で生きていくしかない子供たちを被ばくから守れるよう、地道に除染を続けていくこと。こどもが安全に過ごせるセーフティゾーンを少しでも増やしていくこと。汚染された食品を絶対にこどもの口に入れないこと。手遅れになる前に、子供たちの未来を私達が摘み取ってしまうことの無いように、そして「フクシマ」がいつかまた、あの自然豊かでのんびりとした、私の大好きだった故郷「福島」に戻る日が来ることを信じて・・・。