仏青という「場」を開く

 今回の仏青づくり研修会に参加して課題となったことは、「場」という問題についてである。酒井先生のお話の中で「場を開く」という表現があった。今まで「場」というものは、何人かの人間が集まった状態を指しているものだと思っていた。しかし本来は「開かれる」ことによって初めて、その躍動性を見ることができるようなもの、つまり「場を開く」ということは、実は「自分を開く」ということだったのではないかということに気づかされて、ドキッとした思いがした。

 言葉で言うのは簡単なことだが、「自分を開く」には、相当なエネルギーと思い切りが求められる。しかもその「場」に身を置いている各人の間に一定の信頼関係が築かれ、「言ってもいいんだ」というある種の安心感が生まれていないと、なかなか「自分を開く」ことはできない。「誰かが本気で言ったことは、本気で聞かなくちゃいけないんだ。」とは重松清の小説『青い鳥』の中で吃音の教師、村内が生徒たちに訴えた言葉だが、まさに「本気で言う」そしてそれ以上に「本気で聞く」そういう関係性が生まれてこそ、「場」が生き生きとした空間になっていくのではないだろうか。

 我々仙台教区でも、昨年の秋から、仏青がスタートした。またいくつかの寺院において子ども会や、単位仏青的なものの萌芽も見られる。この間、教区においては、事業や研修を通して、各自の課題を共有し合い、お互いに理解を深めることができているようには見える。しかし、忘れてはいけない。私たち仙台仏青、設立の趣旨文の中には「垣根を取っ払う」という一節があるのだ。寺、宗派、性別や年齢・・・そういった目前に横たわる「垣根」を越えて、共に歩もうという願いを、実現できているかといえば、今回こそ一般の方の参加があったが(これはすごくうれしいこと!)寺族ばかりの参加者、まとまった議論の時間が持てない・・・などまだまだ課題が山積している。「垣根を取っ払う」ための第一歩が、まず「場を開く」そして「自分を開く」ということから始まるのだと、今回の研修会で痛感した。

もう一度『青い鳥』より。
「ひとりぼっちが二人いれば、それはもうひとりぼっちじゃないんじゃないか、って先生は思うんだよなぁ。先生はひとりぼっちの子のそばにいる、もう一人のひとりぼっちになりたいんだ。」
「ともに考え、ともに歩めるものとなれるかということが、仏青の課題である。」という酒井先生の言葉を胸に、人間誰しもが持っている悲しみ、苦しみにお互いが寄り添って、共に分かち合っていけるような、そういう仏青であればいいなと思います。
最後に、今回の「仏青づくり研修会in仙台」の開催に当たってご尽力いただいた、全国仏青のスタッフの皆様、並びに教育部の皆様に、このような「場」を仙台で設けていただいたことを、御礼申し上げます。ありがとうございました。