2011年3月30日 新型お風呂石巻に行く
今回は、石巻にある住吉小学校にて設置するのですが、そこはライフラインが未だに全滅、夜はロウソクで暮らしているような状況なので、水はこちらから用意して持っていくことに。
住吉小学校は、津波の被害を直接受けており、一階部分は泥にまみれて、廊下も教室もぐちゃぐちゃです。校庭には、横断歩道の書いてある道路が横たわり、プールには自動車が沐浴している。そんな場所で、150人程の方が避難生活を送っています。
昼間は子供も含め、みんなでそれぞれの自宅の泥かきや片付けに追われ、夜はロウソクの灯りで教室に横たわる。そんな場所でした。
前回は、子供限定のドラム缶風呂という形で提供したので、それを踏襲して今回も子供限定という形で呼び掛けることに。
着々と準備を進め、用意が出来た頃に男の子三人組が来てくれる。
幸先の良いスタートに安堵したのも束の間、つ、次の子がこない。
このままでは、BOPの輝かしい歴史に傷がついてしまうと、避難所の代表の方に伺うと、昼間子供たちは片付けの手伝いなどで、あまり居ないという事実を告げられることに。
それでも、少ない子供を求め彷徨う男たち。
やっと見つけた親子連れに、お菓子もあるし、お風呂に入りにおいで!と言うと、子供は行きたいというのに、親は怪訝な顔で愛想笑いをして一昨日入ったでしょ?と、とてもわかりやすくオブラートに包んで拒否されました。
私の見た目が怪しいのか!
風呂に入れてない奴が、風呂を勧めていることで、説得力がないのか!
アレ?臭いのか!?
そんな風に軽く傷つきましたが、そんなことでは挫けません。
こんなこともあろうかと、今回は初号機ではなく、改良型二号機を搭載してきてるのです。
二号機は、通常のバスタブを備え、しかも花王のバブに対応しているのでフレグランスなバスタイムを提供することが可能な、まさに大人の優雅な午後を演出するに最適な一品なのです。
蛇足が過ぎました。
大人も入れないか?という声をたくさん頂いたので、子供に限らず受け入れることにしました。
そして今回は、女性にも利用して頂こうと、徹底してプライバシーには配慮したので、男女比で女性の利用者の方が多い結果に。
思春期の中学生の女の子二人組から、妙齢の女性、おじいちゃんまで、年齢層も幅広く、利用して頂けました。
私にとって、利用者の方がお風呂を待っている時間は、お話を聞かせてもらえるのでとても大切です。
今日も、色々な話を聞かせて下さいました。
ずっと描き続けてきた絵を全て失った話、町が海に沈んだので家族が船に乗って助けに来る迄、三日間1人で部屋に閉じ込められていた話、身内を目の前で亡くした話、ついさっきお兄ちゃんに意地悪された話、他愛ない話から、深刻な話まで、皆さん本当によくお話してくれます。
何より、泥だらけの中を片付ける毎日なのに風呂も洗濯も無理、というストレスがあるので、皆さんとっても喜んで下さる。
ですが、最後の女性を笑顔で見送った時には心地よく感じていたハズの疲労感は、気が抜けた途端に、半端ない疲れとなって肩にのしかかるのでした。
今日は、偶然TBSのクルーに取材されました。
2011年3月27日 宮城県七ヶ浜町に行く
今朝も、震度5弱の地震で目が覚めました。復興は始まってますが、決して地震は終わっていません。
実は、七ケ浜に従姉妹が住んでいます。宮城県仙台港近くの沿岸部ですが、地震当初から、かなりの被害が出ているとの報道が為されていました。
別の場所に住んでいる従姉妹の母は、娘は死んでしまった、孫にも二度と会えないと、酷く取り乱していました。ですが、人づてに家族みなの生存が確認され、現在避難している避難所が判明したので、昨日は従姉妹に会いに七ケ浜へ行ってきました。
七ケ浜へと向かう道は、他の沿岸部同様、酷い有様。都市部に近いからか、側道に連なる廃車の数もかなりのもの。
恐らく田んぼだっただろう場所は水が引きにくいためか、湖のようになっていました。
避難所には、300名程が避難されていました。名簿から従姉妹を確認して、無事に再会。
ご主人も帰ってきて、色々な話を聞かせてもらうことに。
地震のあと津波が来るからと、高台へ避難
津波が来て、目の前で近所の人、自宅が飲み込まれていくのを見たと。
打ち寄せられる瓦礫には、人の残骸が幾重にも絡まり、直視できるものではなかった。
第一波が来た後、水が引いていき、もともと海が見えていたところにも水が無くなり、海が消えた。
周りにいる人たちは、死を覚悟し、みんなで手を握りあい、世界が終わるんだと信じて疑わなかったそうです。
幸運にも、高台のギリギリで第二波は止まり、助かったよう。それでも、周りは水没し孤島と化していた
真っ暗闇の中、食糧も水もなく一晩過ごし、夜が明けて水量が減った箇所を探し、瓦礫と遺体の山を乗り越えて避難所へとたどり着いたとのこと。
自宅の一階部分は、全て無くなり、ご主人の仕事である養殖は全て駄目になった。船も車も全てなくした。
チリ沖地震でも、養殖に被害を受け、私財を投じて、やっと形になったところを全てやられた。
そう語るご主人の目は、涙で赤くなっていた。
何か言葉をかけたいと思うし、力になりたい。身内だもの、その気持ちは尚更で。それでも、言葉が見つからなくて、ただ頷き、聞くことしかできない。
子供の学校もあるし、土地を離れたくないと言われたら、何もしてあげられなく、とても無力で。
話を聞いてあげるだけでも違う、そうは思うけど。 本当に沢山のモノを失った人を目の前にして、萎縮して、悔しくて、同情して、それなのに、自分は無事だということに安堵さえ感じていて。
支援ということの、難しさを改めて感じました。
地元いわきの友達にこんなことが。旦那さんが、警察官なのですが、乳幼児がいるので、原発が爆発したのを見て、娘と妻を会津若松の実家に車で送り避難させた。
いわきに戻ると、職場放棄でクビだと言われ、職を失うことに。
あんな状況の中、家族の安全を優先したら、クビにされる。
公務員の事情やら、わからないことだらけだけど、こんな状況で職を失い不安だらけな友達を思うと、心がかき乱されます。
話は一転しますが、BOPに新たな動きがっ!
初号機は、薪式五右衛門風呂ドラム缶Verでしたが、二号機は、薪式追い焚き機能付きバスタブVer という劇的な進化を遂げました!
2011年3月25日 ドラム缶風呂、気仙沼にて
まず報道通りの惨状の南三陸町に入り沿岸部を北上することに。
目的地は、気仙沼近辺で、子供がいて、且つライフラインが整わず、且つ多過ぎない避難所である。
というのも、そうあの有名な、(せーのっ)BOP「仏青お風呂プロジェクト」をもう実行に移すことに。
構想の段階では、足湯も併設、足が伸ばせて、お年寄りも安全に入れて、女性も気にせずに入れるようにプライバシーにも考慮する。シャワー、洗い場完備。
湯上がりには、新品の下着に、牛乳。
なんて、夢のようなバスタイムを提供するつもりでいたのですが、早くお風呂に入りたいという心の叫びに1日も早く答えたいと、当初のサービスから大幅にクオリティを下げ、子供限定五右衛門風呂、洗い場お菓子付き、という結果に。
しかし起草から二日目で、しかも物の手に入らない被災地で準備しなければならないことを鑑みると、最初はこの位で妥協せねば。
今回の課題や反省、場所やニーズに合わせて今後は、他の方から頂いたアドバイスも参考にクオリティを上げられたらいいのになぁと次の予定も未確定のまま、思っています。
結果としては、どこでやるかということが一番のネックに。ライフラインが整わない場所ということは、避難所に知り合いでもいないことには、電話連絡が限りなく不可能に近いのです。
現地に直接出向き、役場を巡り、様子を伺い、私達の求めるBOP(ベストお風呂ポイント)を発見!
私達の申し出を快く受けてくださった避難所の皆さんに感謝です。
また、この避難所の方々が気持ちの良い人ばかりだこと!
子供の為のお風呂と聞いたら、自分たちの生活用水の為に貯めていた湧水のほとんどを使ってくれと。子供達に、からだ洗ってお風呂入ってサッパリして欲しいと、全面的に協力して下さいました。
地元の消防団が土地を提供してくれ、自分の家を無くした人達が、あぁだこぅだ言いながら、踏み台がいるだろうから作ってやる、水は集めてきてやる、薪が足りないだろうと薪割りを始めるおじいちゃん、こちらが提供しようと思っていたのに、結果的には一緒に作り上げることに。
初めて入る五右衛門風呂に、子供達は大興奮。 久しぶりの洗髪にお風呂で、子供も親も喜んでくれたよう。お風呂の順番を待つ間には、鬼ごっこをしたりして。お菓子を持たせて帰らせて。久しぶりに楽しかったなあ。避難所の皆さんもとても暖かく迎えてくださり、帰りぎわには半ば強制的に手土産まで。支援にきて、物資を渡されて帰ることに。
同行者が次の予定があるので、晩御飯を辞退して帰ったのが心残り
もっとぺーじぃちゃんのマグロ漁で世界をまわった話聞きたかった
家を無くしたばあちゃんが今後どうすればいいかって話をじっくり相談乗ってあげたかった
かまどを囲んでじいちゃん達の昔話の続き聞きたかった
地震が来る前に知り合ってれば、いくらと新巻鮭をたくさん贈ったのに、という言葉の真偽を聞きたかった
何より子供達ともっと一緒に遊びたかった
子供御遠忌やりたいなぁ
1日を振り返ると、今日は沢山泣きました。
仲間と語り合って泣き
南三陸町に足を踏み入れて泣き
そこで、家を無くした人の話を聞きながら泣き
子供の為に風呂を、と張り切る避難中のおじいちゃんの背中で泣き
子供の笑顔に泣き
帰りの車で久しぶりに音楽に耳を傾けて泣き
大阪に避難している姉からのメールを見て泣き
今、改めてカウントしてびっくりしました。か弱い乙女になったようです。
今後は、そのように扱って下さい。
どれが嬉し涙で、悲し涙で、悔し涙で、または他の涙かは、わかりませんが、とりあえず今日は久しぶりに明るい写メが送れそうで嬉しいです。
2011年3月23日 牡鹿半島に行く 今後の活動考える。
3月23日
牡鹿半島にある老人ホームが電気、水、ガスが無くて、周りから孤立していて食料も足りないという情報が入り、届けに行きました。
孤立しているというだけあって、そこに至る道はひどいものでした。
道路は陥没し、橋は落ち、船が道を塞ぐ。通行止めの道をいくつか強行突破してたどり着いた半島にある集落は、ほぼ全滅していました。まだ、遺体の収拾作業の最中で瓦礫の中を捜索している横を抜け、老人ホームへ。
物資を届け、帰り道にまた無惨に破壊された集落にさしかかる。
津波の被害を既に嫌という程見てきたのに、ついさっき見たはずの景色でさえ、再び目にすると、胸が詰まる。
何度見ても、慣れない
天気が良く、暖かくて気持ち良い日に、世界はこんなにも美しくて、それなのに現実はとてもとても厳しくて、それでもみんな必死に生きていて。
失われた街を見るたびに、言葉では表せない喪失感のようなものを感じます。
それでも、物資を届けた時の喜んだ顔、様々なものを失って尚、生きようとする姿に、前を向かせられているように思います。
世界は、とっても美しいです。瓦礫だらけで、泥だらけの避難所で炊き出しをしている人達、それを食べている人達の姿は、生きていく人の姿は、とても美しかったです。
全国から今被災地では、何が欲しいの?送るよ!という声が届きます。ですが、被災地のニーズは刻一刻と変化していて、本当に早い。必要な物を聞いて、それから会議して、京都に要請して、次に本山から送るトラックに載せる。
これでは遅くて情報も、錯綜してる。
ある人は、物が足りなく危険だと、違う人があそこは十分物があると、どちらも嘘ではなく、数日前の話か昨日の話かで。物が足りないと聞いたんだけど、という情報には、何時の時点での情報かをはっきりさせなきゃいけなくて。
避難所の方から、これが一番欲しいんですけど、と言われても、在庫が無くて届けられないもどかしさを何度も感じてる。
情報が入ったら、すぐに調達して、判断を仰がずに向かえたらなぁと。でも今は足がなく、本山が用意した車、物資を使わせてもらわねば何も出来なくて、そうなると一存では動けず。
でも、その中で少しでも効果的に動くコツがわかってきた気がします。
話は、変わりますが
BOP(仏青お風呂プロジェクト)を発足しようかと考えてます。
避難所にお風呂を作って入ってもらうという非常にシンプルなプロジェクトです。
実現可能な方法や、運搬方法など、アイディアがもしあれば下さいまし。
現時点では、ドラム缶風呂が有力です。
2011年3月22日 救援物資 福島県相馬市
相馬にある避難所の環境が劣悪との情報が入り、物資を積んで届けに行ってきました。
廃校になった校舎の床は冷たく、段ボールを敷いてその上に毛布を敷いて寝ておられます。やはり高齢者が多く、決して衛生的ではない場所に500人程がおられました。
体が動く人達には比較的、笑顔が見られ、「地震の前は寝て起きては、酒を飲んでたけど、今は飲んでられないし、まいった」と、みんなで力を合わせて物資の搬入をしながら言うおっちゃんの顔は、どこか嬉しそうにも見えました。
帰り道、津波の被害を受けた地区を少し見回ることに。
何度も通って知っている町が、景色が無くなってた。
言葉にならない
何も無くなった景色を茫然と見ているおじさんに、話を聞くと、「あそこに自宅があった、家はまた建てればいいけど、孫の身長を刻んでた柱が無くなってしまった」と言って、瓦礫の中を探していました。
あの津波は命だけじゃなく、いろんな思い出もまとめて流してしまったんだなぁと。