2011年5月 私は支援する人?される人?

 「家も車も船もみんな流されでしまって、もうなぁんにものごってね(残ってない)」と、昔はマグロ漁船の機関長だったおじいちゃん。「あだしばっかり生き残ってもさげね(申し訳ない)」と話してくれたおばあちゃん。仙台仏青のBOP(B仏青Oお風呂Pプロジェクト)の活動のお風呂の順番を待つ時間に、ぽつりぽつりと思いを語り出してくれる方々がいます。悲しいお話ではあるのだけれど、不思議とその方の優しさが伝わってくる気がします。

 「あたしんちね、ちゅなみ(津波で)で流されてどっかいっちゃったの」ある避難所で、私の足を蹴ったり髪の毛をひっぱったり泥を投げたり、それまで意地悪ばかりしてきていた4歳くらいの女の子がふと話してくれました。「もうね、なぁんにもないの」きっと本人はそれがさみしくて悲しいことだってわかってる。でもたまたまボランティア活動に来た私にそのことを話してくれたのは何故だったのだろう。


 帰る時間になり、かなり周りは暗いのに車のそばまで見送りに来てくれて、「かえっちゃうの?かえらないで、おねがい」「また来るからね」と私。「ぜったい?、じゃあ、ゆびきりやくそくして」とその女の子。私は泣きながら指きりの約束をしました。私が避難所に支援に来たつもりになっていたけれど、本当はそうじゃなかった。その女の子がいてくれたおかげで、女の子が指きりの約束をしてくれたおかげで、私自身が生きる力をもらっていたんです。じつは私が励まされていたんです。帰りの車の中でいっぱい泣きました。

 「復興」っていったい何なのでしょう。家が建つこと?仕事があること?物が不足しないこと?堤防をさらに高く築くこと?TVや新聞では「被災地」が復興しつつあるようなことが報道されていますが、「被災地」ではなくて「そこに住む一人ひとり」の心は今も悲しみ・苦しみのただ中にいます。いまも困っている人がいます。


 しかしながら、私個人や仙台仏青の活動の中で出来ることは本当に小さく少ないということも実感しています。避難所へ通えば通うほどお寺や家族にどうしても負担をかけてしまうという葛藤もあります。予定していた宗祖親鸞聖人七五〇回御遠忌の法要に参拝することは叶いませんでしたが、避難所とお寺を往復する生活の中で様々な葛藤に向き合うことが「私にとっての御遠忌なのではないか」ということをいま考えています。








5月31日〜6月1日の報告

今日は雄勝町水浜避難所で炊き出しと無料バザーと念珠つくりをしました。
仏青同盟とコラボです。

避難所に行く途中、車のお腹をするような道や冠水している道など、昨日の雨でかなりの悪路になっていました。
でもよく考えたらこの道が避難している人の生活道路なんです。
スーパーに行く時も病院に行く時もこの道を通らなければいけません。
被災地の過酷さを改めて知りました。

少し不安な炊き出しでしたがみんなで協力してできたのでかなり好評な出来でした。
自分は初体験でしたが焼肉をよそおうとした時に避難所の女性の方たちが手伝ってくれ共同作業にいい感じの雰囲気でした。
無料バザーも好評でした。
念珠つくりも中抜けしたので参加できませんでしたが好評だった模様です。
準備中に女性の方と30分くらい立ち話しました。
話を聞いていてずっと涙が出るの我慢していたけど溢れちゃいました。
話の終わり際に「話を聞いてくれてありがとね」って言われて何て返したらいいかわからなかったけど素直にうれしかった。

途中、中抜けして唐桑地区避難所と指ヶ浜避難所に物資を持っていきました。
唐桑地区には冷蔵庫を持っていきました。
そこの避難所のお父さんともお話を聞かせてもらいました。
始めの時は挨拶と物資の依頼だけしか話さなかったけど会う回数が増えるたびに話をする時間が長くなりました。
お話中にコーヒーやお土産のサブレを頂きました、その気持ちが温かかった。
そこの避難所の女性に聞きましたが雄勝町の人口4000人中、今は1000人くらいしかいないそうです。
亡くなった方や行方不明の方や町以外に避難した人を抜かしてです。
そのお母さんは「私がここで生活しているのは、いつ避難した人が帰ってきてもいいようにここにいるんだ」といっていました。
帰ってきた時に誰もいなかったら住もうなんて思わないですからね。
話の折々にこの育った土地が好きなんだっていうのを感じました。

この唐桑地区避難所で石油ストーブが壊れたらしく寒い思いをしているみたいなので明日か明後日持って行こうかと思います。
もう少しで夏だけど梅雨の時期はまだまだ寒いだろうからスピード重視で持って行きます。

帰りに土葬した場所や初日にできなかった全国仏青の被災地視察をして帰りました。
何だかんだで個人的に雄勝は4回目の訪問になります。
また仮設に移り住んでもつながりを持てたらなと思いました。

06/01(金)
今日、昨日依頼があった石油ストーブを雄勝の避難所に届けてきました

量販店の家電屋さんが夏に向けて衣替えで石油ストーブが置いてなくて焦りましたが、D2に一種類だけありまして助かりました。
Sさん、Kさん、他にも心配してくれた方ありがとう。
ということで新品の石油ストーブとそれに使う乾電池と灯油18ℓを持って行きました。
到着するとすぐにでも使えるようにダンボールから出して乾電池を装着して灯油を入れて無事にセッティングしてきました。
お母さんに家に上がっていくのを勧められてコーヒーをご馳走になりました。
それから何だかんだで2時間以上もお話を聞かせてもらいました。
行方不明の旦那さんの事や亡くなった親族の事や息子や娘の事など色々話してくれました。
不思議なのは津波や地震の愚痴は一回も聞きませんでした。
とても強くて前向きな人でしたが時折寂しそうな顔もしていました。
帰る際にはわざわざ外に出て見送ってくれて何か寂しかったけど、また機会があったら行きたいなと思います。







2011年5月31日 雄勝町に再び行く

5月22日に行った雄勝町の水浜避難所に再び行き、炊き出しと無料バザーをしてきました。

 メンバーは仏青、チーム二本松に加え全国仏青のメンバーが数名となりました。

 本来ならば、前日に被災地の状態を見てもらってから現地に向かう予定だったのですが、東北地方は台風の影響により大荒れの天候となり視察は断念せざるをえませんでした。

 当日になり避難所に向かったのですが、台風の影響は被災地の交通に大きく出ていました。前回は通っていた川沿いの道が通行止めになり、抜け道として舗装のされていない盛り土をしただけの道を使うほかありませんでした。

 その他にも崖崩れが発生したところが何か所かあったようです。

 防波堤が津波によって破壊された箇所は、その部分から通常より強く高い波が浜に押し寄せることになり、これから台風が増えて海が荒れることを心配していた避難所の方もいました。その方は、せっかくボランティアの人達に来てもらって綺麗にしてもらった浜辺がまた汚れてしまうことを申し訳ないと語っていました。

 今回の炊き出しは焼き肉とみそ汁とご飯、そしてデザートにいちご。やはり肉は元気の元です。

 食後は無料バザーを開催。その間、地元の男の子と全国仏青のメンバーが一緒に楽しそうにあそんでいました。

 水浜避難所はすぐ隣に仮設住宅がほぼ完成し、6月には解散の予定だそうです。しかし、仮設に入ってしまうと、自治体からは完全な自活を求められ生活支援を受けることができなくなります。この避難所は市街地から距離があるために買い物をするのが非常に困難です。また、上記したように道もまだ未舗装の箇所もあります。

それが理由で仮設に入らず、避難所に残ることにしたり、地元から離れた仮設を希望する方も多いそうです。あるお母さんは、地区の学校が流されてしまったので、子供を石巻市の中心部の学校に通わせるために地元ではなく中心部の仮設に入ることを希望したそうです。水浜地区から学校までは車で1時間以上。これを毎日続けるのは非常に大変なことは明白です。

生まれ育ったに残りたくてもそれが叶わない。これは本当に辛いことだと思います。

帰り道に前日行くことが出来なかった被災地の様子を通って来ました。千人を越える人達が、そこで命を失った場所を目の当たりにすると、やはり言葉もでません。

ただその光景を事実として認めることに精いっぱいでした。

2011年5月27日 本山パネル展にて活動報告

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御遠忌第三期法要では、阿弥陀堂の増床部分に仙台仏青の震災における救援活動日誌という形でブースが設けられることになったので、そちらに行ってきました。

 第三期法要は、ちょうど梅雨入りに重なり京都の天気は不安定で、雨が降ったり止んだり、御遠忌ゆるキャラのプリントされたビニール傘をさしておられる参拝の方々で賑わっていました。本来であれば自坊の団体参拝で来るはずであった日、住職が引率で私は留守番の予定でした。参ることがなかったハズの私が本山に立ち、楽しみにしておられた御門徒の方々はおられない。なんだか複雑な想いでいっぱいです。

 御遠忌スタッフジャンパーを借りて、ブースのところに立つことに。パネルの準備などに関わることができなかったので、現場に行って初めて、どういった形で展示されているか確認することに。

話を聞いた当初は、写真展のような形なのかと思い込んでいたので、見ておられる方に簡単に写真の説明や背景なんかをお話できれば、と思っていたのですが、実際に見てみたら情報量の多いこと多いこと。自分でじっくりみたら30分近くかかってしまったくらい。逆にこれだと、読んでいただけたら説明することもないし、自分の存在意義は!?と思いましたが、何人かの方は、質問してくださったり、私の状況を心配してくださったり、なんとか居てもいいんだよっと思えるくらいにはなりました。

 パネルを見て下さる人を眺めていると、ご自分が震災を経験された地域の方の割合が多いように感じました。団体参拝の皆さんは、タスキなどにご自分の教区や地域が書かれていて、出身地がすぐわかるんです。何人かに、話を聞かせてもらったところ、やはりご自分が過去に被災された経験から、被災地の苦労がよくわかるとおっしゃられていました。それでも、未経験の津波被害の深刻さには言葉を失っておられました。

 残念な点でいえば、皆さん団体行動しているので、どわぁーっと来て、どわぁーっといなくなるんです。ゆっくりパネルを見てくださっていても、「次、こっち行きますよー」との声で、途中で切り上げて行かなくてはなりません。なので、なかなかじっくりと目を通してもらい、お話する、という訳にはいかないんです。そんな中でも、何十分もじっくりと目を通して下さる方もおられたので、少しは被災地のことを感じていただけたかなぁと、今も現地で活動している仲間たちを思い出していました。
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 多くのご参拝されている方で賑わう東本願寺に立ち、改めて思うのは、やはり御遠忌ということ。

僅かですが、被災地から御遠忌に参拝に来ることができた方々もおられます。ですが、大多数は、来ることが叶いませんでした。今回の仙台仏青のブース設立にあたり、我らが会長がコメントを寄せています。その中に、こんな箇所がありました。


「僕の御遠忌は被災者と共にあります。バケツリレーの中に避難所の人たちと語り合う中に親鸞聖人はいました。子供たちの笑顔やおじいちゃん、おばあちゃんの「ありがとう」がお念仏でした。地震の規模が大きすぎて僕たちの力だけじゃどうしようもありません。待っている人たちがいます。助けてください。今後も引き続き活動はしていきます。」 抜粋 



今回の御遠忌の基本理念は、「宗祖としての親鸞聖人に遇う」ということです。遇うという字は、偶然の出会いを意味します。思いがけず、予期せずの出会いです。震災の中、思いもかけない出会いが沢山ありました。本山にお参りすることは叶わなくても、思いがけず、予期せず、被災地の中で確かに親鸞聖人の姿を見出し、出遇っていたのだと思うのです。

そしてそれは、思いがけない出会いであると同時に、「いのち」をそこら中で感じることのできる被災地において、出会うべくして出会ったとも思うのです。

2011年5月25日 B(仏教青年会)O(お念珠)P(プレゼント)

5月25日 福島県相馬市中村第二小学校にB(仏教青年会)O(お念珠)P(プレゼント)に行きました


相馬のお寺で待ち合わせ2人で行きました。あらかじめ連絡していたので14時に体育館(避難所)に着き、おもむろにビーズの珠を並べると大人(お母さん)達が集まってきた。子どもは、学校があるので、小さい子しかいなかった。

最初は、不思議そうに見ている方も時間が経つと3、4個作くられる。孫や夫、友達にプレゼントするのだと言う。

16時頃になると子ども達が帰ってきて、にぎやかになる。

何個も作る子は、指輪やネックレス、ストラップなどアレンジしていく。

ここには、先日ブレスレットを作るボランティアが来たそうである。ブレスレットと念珠はどう違うのか?

私は、念珠には、祈り(願い)があると思う。「津波で流されて数珠もない」と 腕輪念珠ではなく、本念珠を作る方もいる。

そこには、亡くなった方への供養。今、この状況で生きている人への願い。人の力をはるかに超えた力を前に何かにすがりたいのだと思う。


19時半までひたすら念珠の珠にヒモを通して結ぶ。これを約5時間2人とも会話もなくやり続けた。

最後に元気のいい漁師の大将が、私達2人にコーヒーをいれてくれ想いを語ってくれた。「魚が取れるようになったら一番に持って行く」と私達に言ってくれた大将の顔を忘れない。

2011年5月22日 もみもみマッサージに焼き鳥にニコニコ

20110522100824.jpg5月22日 雄勝町に炊き出しに行く

女川の北にある自然溢れる町雄勝

今回は雄勝町にある水浜避難所で炊き出しをしました。

今回のメンバーは仏青、チーム二本松、チーム三重、チームフットマッサージで行いました。
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この水浜避難所は旧水浜保育所の建物を避難場所にしています

なので至るところに保育所を思わせる作りをしています

ここは少し高台になっていて津波の被害からは免れましたが、ここから町を眺めるとその惨状に唖然とします。

この避難所では今でも80人ほどの避難者がいます。

つい最近、通電してライフラインが回復したことをお聞きしました

お風呂はここから100mほどのところに自衛隊がテントを張って提供しています。

ということでお風呂は無しで炊き出し中心に行いました。

今回の炊き出しはご飯と焼き鳥と野菜炒め
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事前に調査したときに「焼き鳥を食べたい」との要望がありましたので、それに答える形でメニューを決めました。

案の定、焼き鳥は大好評でした。

「今年に入って初めて焼き鳥を食べた」と笑顔で話されていたお父さんがいました。

うれしい限りです。


今回は仏青メンバー知人のフットマッサージさんも同行しました。

到着するやいなや早速要望があり、それからはそっちに専念してもらいました。
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また「無料バザー」も開催。

これから夏に向けて本格的に暑くなっていきます。

ということで衣類の薄手の物や半袖が好評でした。

そして恒例の念珠作り。

これも盛況でした。

炊き出しやバザーだけだとどうしてもお渡ししてそれでお仕舞いになりがちです。

もちろんそれも大事なことなんですが、やっぱり被災者の生の声を聞いていきたいのです。

そこでその溝を埋めるのが念珠作りなのです。

被災地の人と共に念珠を作る中で自然と会話も生まれます。

津波の被害の話や家族の話、仕事の話など色々と聞かせてもらいました。

その中で僕たちにできることは何なのかを考えていくのも重要なのです。

今回、炊き出しを引き受けていただいた理由に、いつも自炊している女性陣に休みを取ってもらいたいということがありました。

毎回朝昼晩と何十人分の食事を用意してるそうです。

時には自宅避難しているお宅まで持って行くとのお話を聞きました

毎日毎日たくさんの食事を作るのも大変です。

避難生活の過酷さを実感しました。
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雄勝町でもそうですが順次仮設住宅への移動が始まります。

その時に問題となるのが「弱者を優先するのか」、「地域性を優先するのか」ということです。

仮設は一気に必要戸数が建つわけではありません。

その時に年輩や子どものいる世帯を優先的に移り住むのか、その地区単位で移り住むのかが問題です。

この水浜地区もそうですが大変地域のつながりがある土地柄です。

仮設に移り住むことにより地域のつながりが薄くなることを心配している方がいました。

避難所から仮設に移り住む変遷の中で色々な問題が起こります。

その中で自分には何ができるのか、被災地の人々の声に耳を傾けながら考えなければいけないなと改めて感じました。

2011年5月19日 念珠作り好評です

5月19日(木)亘理町逢隈小学校

今日、明日は亘理のボランティアセンターとの連絡を通して、逢隈小と吉田小に東京、三条、名古屋、兵庫などの混合炊き出しチームが入ります。

両日とも晩の炊き出しのため、ちょっとお邪魔して念珠つくり。

渡り廊下ではチーム炊き出しが大鍋をひろげてカレーを作っています。

さすが、装備がでかいのに手際がいい。



体育館で折り紙と念珠用のビーズを広げると、何となく子どもたちが集まってきてくれます。

ここは子どもが多い。

そう言うと「子どものいる家庭が集まってるんだよ」と教えてくれました。

体育館に畳、大人の腰くらいまでの高さのダンボールで簡易に部屋の様にしきってあります。

畳を幾つか合わせたプレイルームにはファミコンもあり、なんとスーパーマリオが人気でした。昔取った杵柄は通用せず。口ほどにもない大人への子どもの目が痛かった。練習するからゆるして。



同じ学校に通っていても、避難中の体育館へは自宅にいる子どもたちは入らないことにしているらしく、「私たちもやりたい」という声にこたえて念珠つくりを急きょ体育館と外の二か所同時開催。

予備にもう1セットを持って行っていて良かった。

どちらも子ども、おじさん(スタッフ)、子ども、おじさん(スタッフ)、子ども。

もちろん大人の皆さんも参加。2時頃から始めて、中の体育館でようやく店じまいしたのが7時頃。

持って行ったゴム紐を使いきり、切って短くなったゴムで指輪やストラップを作りました。

気持ちいいほど使い切ったね。

さて、僕にこのカラフル腕輪念珠つくりを教えてくれた弟は、外の子どもたち担当。こちらは体育館の中。作りながらお母さんたちとお話しいていると、どうも僕と会ったことがあると思うという人が。「亘理高校通ってなかった?」「サッカーやってなかった?」との質問。

弟のサッカー部仲間のお母さんと奥さんでした。その頃から比べると若干(横に)育った今の本人よりも、僕の方が高校時代の彼に面影が似ているようで、仕事から帰ってきた元サッカー部の仲間にも、まず僕が声をかけられました。「僕は兄です」。

ホントに偶然だけど会えて良かった。弟たちはその後、他の友だちも呼んで飲みました。


当たり前のことだけど「避難」っていうのは状態をいう言葉。避難者っていう人がいるわけじゃなくて、「普段」の状態に戻ろうとしている普通の人(表現がおかしいかもしれませんが)なんだと、近しい知り合いに会えた弟を見てあらためて感じました。


6月半ばまでには仮設に移る予定のこの場の皆さん。

プレールームのあるところもあるらしく、今度はそっちに来てねと話してくれました。

炊き出しのカレーと野菜スティックも好評。最後は7時からの星を見る会の望遠鏡に、東本願寺のオレンジジャンパーも結構並んでいて面白かった。


すっかり暗くなってから別れました。またね。

明日は吉田小、はりきっていこう。

2011年5月19日 様々なご遠忌

御遠忌団体参拝~本山で・家で~


5月19日から東本願寺にて第三期の御遠忌が始まりました。


自坊からもおかげさまで御遠忌へ参拝することができました。

当初は70人での参拝を予定していましたが、

震災の影響で寺としてはやむなく中止を決断。


ところがなんとしてもお参りさせていただきたいと、

何人かの門徒さんから声が上がりました。

末期癌から奇跡的に回復し、熱心に聞法を続けておられる方

昨年ご主人を亡くされた方

介護中の家族を抱えた方

実家が津波で流された方

不自由な足を抱えながらの方

80歳を過ぎたご夫婦

などなど

住職を含め総勢14名が集まりました。
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みなさん口々に言うのが

「こんな時だからこそご本山にお参りしたい」

「途中で死んでも悔いはない」

おのおの決死の覚悟で上山を望み

御遠忌参拝を決行しました。

おのおの十余ヶ国のさかいをこえて身命をかえりみずして

たずねきたらしめたまう御こころざし

ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。

                  (『歎異抄』より)

まさにその心なのかな、そう感じさせられました。


ところで、当初は私も一緒に参拝予定でしたが残念ながらお留守番。

私は実家の祖父母、母と一緒にインターネットによるライブ中継で

御遠忌に参加させていただきました。

「体調が悪いから御遠忌には行けないと思っていたけど、

一緒にお参りできてよかった」

と、祖父母はとっても喜んでくれました。


翌20日、無事に14名全員が京都から帰ってきました。

あの時の皆さんの素敵な笑顔が忘れられません。

色々準備をして下さった旅行会社の方

背中を押してくれた家族

一生懸命サポートしてくれた本山の方々

その他にも数え切れない多くの方々の支えのもとに

実現した団体参拝と、家での御遠忌。本当にありがとうございました。



2011.5.20 02:17

 ■宮城・玉蓮寺の住職ら参拝
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2011年5月15日 おしゃべりは楽しい

4月15日、山元町、山下第一小学校でBOP、念珠作りを行いました。


テントを張りお風呂を準備し、側ではテーブルを出して念珠作りをしました。大きな銀杏の樹の下で、木漏れ日の中、気持ちのいい風が吹いていました。


日曜日だったこともあり、子どもたちがたくさん来てくれました。女の子たちはずっとお喋りしながら念珠を作り、男の子たちは友達同士、途中ドラム缶へも移動し、驚く程長い時間お風呂を楽しんでくれていました。


夕方頃になりお風呂へ来てくれた方が話してくれました。日中は津波で泥が入った自宅を片付けに行くので、昼間避難所から出ているお風呂への送迎バスには乗れない…。こうして仕事の後にお風呂に入れるのがうれしい、と。また、明日足が痛くならないようにお風呂の中でよっくとマッサージしてたのよ、とも。


念珠を作りながらたくさんお喋りをし、お風呂ではたまった疲れをとっていただく。私自身も今回仏青のBOPに参加してたくさんの力をいただきました。

2011年5月14日 チョキチョキ隊参加

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皆にはお馴染みの私には初めての場所。しかし、きっと皆、初めての気持ち。

サクサクテキパキと荷物を降ろし今日の設営を始める。

ただでさえボケッとしている私は少しでも動こうとするが、相変わらず機敏に動けない。

鹿がうらやましい。常日頃の私はいかに受動で暮らしているかこんな時、身に染みる。



この日は大分ナンバーの“移動福祉理美容ビューティフルライフ”なる車が先に横付けされてあった。いわば出張美容師さんである。我がBOPは炊き出しがあり、もちろん風呂焚きがあるので

各々、動きやすいような服装で着ているが、遠目に見ているとオシャレな美容師さんたちとの対比がどこかくすぐったい。

土の上ではいろんな人が生きていて頼ましいくらいだ。しかし、お互いの持っている団結や力といったものの大事なひとつは、避難所の水道の蛇口から出ている水に依っているのことは忘れてはならない。ここの避難所は今は水が出る。私たちも美容師さんたちも3.11まで当たり前の生活と思ってい、疑わないで生きてきた自然の、人間の営みの恩恵に大いに被っていることに改めて気付かされる。この大地の上、今日のここで。同じ思いのそれぞれの方法で形となっていく。

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風呂の設置が無事に完了し薪をくべ火が順調に育ってきたところ、どうも一方の具合がうまくいってないのではないか、という指摘。はてはて? と屈め大地とパイプに目を凝らす。やや! これでは循環しないではないか! しかも水が漏れ出してきているよ。うまく湯と水を効率よく送り出し混ぜあわせるのはほんの少しの傾けが大切なのだ。ごめんよ、My Friend。持ち上げつつ掘る。石の詰まった大地をスコップでカツカツ掘る。カツカツカツ。どれどれ? うーん、もうちょっと。カツカツカ、あと少し、さてさて? うん、よし! いいんでないかい。と皆、納得。不思議な一体感のようなものが水と混ざり合い湯となって浴槽を満たしていく。



この日はフーチャンプルー。どの食材も大量にあると嬉しくなってくる。火に通されフカフカシナシナになっていく様子を見ていると、下ごしらえをしてくれた昨日のメンバーの思いがたくさん重なっているようだ。私の知らないところで多くの人に支えられ混ぜあわさっていく。縁の下は火だ。順調に動いている私たちの活動も最初の思いはちりちりとしたひとりとひとりの火だった。何か出来ること、私たちがせねばならないこと。火は燃やし始めは難しい。消えるかけるのを見守ったり、とても繊細だ。ちょっとの焦りがよかれと思って結果、火を消してしまうこともある。皆と話していると火種が今や熱い火柱となって燃えているのを感じる。限定的な互いにやり繰りした時間の中で、私は皆に混じって小さな自分の火種に風をいただいている。それは、避難所の人のありがとう、だったり、行き場を探しているやるせない思いだったり…。



初めて腕輪念珠を作る。好きな色でまとめる。桜色ピンクとオレンジ…。好きな色なのにちと恥ずかしいのは、こうでなくっちゃとか、こうであるはずという私の固い思い込みの頑なな芯のせい。が、最後の締めのような結びはやはりお願いしてしまう。覚えないと何も作れない。手裏剣を先日覚えた鶴さえ折れない私には、カブトムシやカニの折り紙は本当に見事だ。さまざまな手を通しいろいろな形で見知らぬどこかでかけがえの無い誰かと生きる大地の上でつながりを持っていく。きっとその方法は無限にあるのだ。現場に来られない人ももどかしさの中でたとえ、座っていても目の前からこの避難所へ、一人の悲しみや喜びに重ねて、生きている。場の持つ大切さ、あたりまえの事はきっと忘れてしまうから、自分のもやもやをさえ大切に思わなければ誰かのもやもやを知らずに踏んでしまうことになる。



髪がのびてもじゃもじゃだよ、といういかにも煙にうっとうしそうなメンバーの一人に、あぁ、彼がくまなく顔を出し誰よりも自分の与えられた場と時の使命を大切にし、最大限見える形にしようとしているのだ、きっと彼の背中の袋には我々の誰も知らない見たことのないような智慧と勇気の物語が日記帳と一緒にたくさん詰まっているのだ、と思ったら、彼が髪を切りたがっているのを感じ、誰もいなくなったころ、私は先の理容の人たちに、一人だけ髪を切っていただけませんか? と、お願いに行く。快く快諾してくれて、教室へ。もじゃもじゃの彼が被災地の大きな一つである福島県から来ている事を知り、理容師さんの手先はとてもうれしそうだ。いよいよキリっとした二枚目になっていく。うらやましいぞ、おい。

理容師さんは「もっと早く来ればよかった、こんなに必要とされているとは思わなかった」と仰っていたのが私には、とても印象的。しかし、大切な仕事です。いつもお世話になっていますよ。ありがとう、理容師さん!!



自分も最後、設営のお風呂に入ってみる。入浴剤の入ったお風呂から囲いのシートに浮かぶ煙突の影が陽の光の暖かさも感じられ、とても美しい。お風呂のため息はきっと安堵の静かな声なのだ。今日の風は強く吹くこともあったし、小さな雨もあった。私の知らないところでいろいろなことや、多くの人達のところで感じること、思うこともあったに違いない。書き足りないことや、書かずしてあったことも、すべてを書き尽くすにはきっと言葉では言い尽くせないだろうけれども、その書かれつつあった時間の記憶と思いのために みんな!! ありがとう ♡



明日もきっと来ます。形はそのままに。

2011年5月13日 準備も大変です

20110513140313.jpg5月13日 14日15日の炊き出しの下拵えをする


BOPや炊き出しの話題が多いですが、今回はあまり話題にでない炊き出しの下拵えについて書いてみたいと思います。


14日は麩入りのチャンプル、15日はお昼シチューと夜野菜炒めを提供します。

両日とも100名を越える人に提供するためその野菜を切ったり、火を通したりしてパックに詰めて当日もっていく作業をします。

人参やキャベツやジャガイモやニラや麩やネギなどを切りました。
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「料理をしない自分にとっては一年分の野菜切りに・・。」


何だかんだで5時間近くもかかったでしょうか。

実は今まである仏青メンバーの家族にこの下拵えをおんぶに抱っこしてました。

それじゃよくないってことで今回集まり野菜切りをしました。

これからも継続的にやっていきたいです。
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話は変わりますが最近仏青メンバーの中で風邪が流行ってきました

震災後の疲れが出てきたのかもしれません。

人数が少ない仏青メンバーですから誰かがダウンすると大変です。

体調には細心の注意を払いながら活動を続けたいです。

まずは自分の風邪をなんとかせねば・・・

2011年5月11日 新たな課題も


20110511132142.jpg5月11日 以前に訪れた保福寺に行く


今回訪れたのは女川にある他宗のお寺、保福寺さん

再訪になります(過去の日記探してみてね)

この避難所では今でも50人くらいが避難生活をしています

ライフラインは復旧していません。

 今回参加者は仏青、チーム二本松、高田教区 大聖寺 教区、北海道教区、 山形教区、四国教区とたくさんの協力がありました。

有り難いです。
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今回はBOPと炊き出しと念珠作りをしました。

前回、訪れた時にはたくさんの子どもと一緒に遊んだ、もとい一緒に遊んでもらったので今回も楽しみにしてました。

が!行ってみると子どもたちはアパートに移り住んだようでほとんどいません。 

前回、訪れたときに「共に遊んだ子どもたち」と会えなかったのは残念でしたが、アパートや仮設住宅に移り住んで行ったりするのは復興の過程なのでそれは大変「喜ばしいことなのです。」

でも保福寺さんの子どもたちとたくさん遊ぶ事ができました。
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行く先々の訪問地で好評なのが「腕輪念珠作り」

レクチャーをしながら一緒にたくさん作りました。

あるお母さんと一緒に念珠を作っていると「私、手首が太いからこれじゃ小さいかしら」としきりに心配されてました。

お話を聞いたらお父さんと一緒に銀鮭の養殖をしているそうです。

その働き者の手は苦労を重ねて太くなったのでしょう。

細い僕の手首を見ると、かなわないよなと心底思います。

お母さんの仕事場は津波で全部流されてしまいました。

今は念珠作りですが一日でも早く銀鮭作りを始められたらいいのにと思います。
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今回もお風呂は好評で、次から次と入っていただけました。

やっぱり一回してると周知しているとうこともあり感触はいいですね!


今回の炊き出しは焼き鳥と野菜炒めです。

17時に提供開始。僕たちは遊びで来ているのではありません。

だから決められた時間には必ず提供しなければいけません。

会長曰く「できるかできないかじゃないんだ。やるかやらないかなんだ。」

やると決めた以上そこは守らなければいけません。

今回も時間に追われながらも滑り込みセーフで提供できました。

今後も炊き出しの時間は守っていきたいところです。


念珠作り、お風呂、炊き出しとどれも好評でした。

いつも滞在時間は6、7時間くらいですがあっという間に過ぎます。

帰る際に保福寺の避難所が20日で解散するということを聞きました

最初は、よかったねという思いが強かったんですが全然よくないんです。

解散になってもみんながみんな住む場所が決まるわけではありません。約20名の人が別の避難所に移り住むそうです。

避難所の統合です。

震災後、慣れない場所での慣れない生活、それでも避難者同士助け合いながら生活を送って来たのでしょう。

今回、避難所合併によりまた別の慣れない場所での生活。また見ず知らずの人と共に生活をしなければいけないのです。

そのストレスは僕みたいな者には到底わからないだろうけど、負担がかかると思います。


この統合を進めているのは行政です。

たくさんの小さな避難所を合併して、大きなを避難所を作った方が効率的な事とは思いますが、もっと「避難者の心の声」を聞きながら対応してくれたらと思います。

2011年5月5日 こどもの日。共に遊び汗をかく

2011050514430000.jpg5月5日、こどもの日。東松島市、野蒜海岸の奥にある宮戸島に行ってきました。ここは島といっても4つの集落からなる陸続きの島ですが、東松島の中心部とを結ぶ唯一の橋が津波によって落ち、震災後数日は孤立状態であったそうです。その後自衛隊のヘリが入るようになり、道路も何とか未舗装ながら復旧、橋も仮の橋がかかっていました。といっても現地までは対向車とすれ違えないようなとても厳しい道のりでしたが。

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この日の活動は避難所である奥松島縄文村での炊き出しと、月浜地区の民宿、かみの屋さんでのBOPという2班体制でした。縄文村での炊き出し、本日のメニューは餃子と麻婆豆腐というチャイニーズスタイル。徐々に炊き出しのメニューもバリエーションが増えてきたななどと妙な点で関心したものです。おいしく召し上がってもらえたかなぁ。食後は衣料を中心とした無料バザーと念珠作り教室。バザーではズボンの需要が多かったような気がします。念珠づくりも子どもから高齢者の方々まで老若男女入り混じって珠が不足するぐらいの大盛況でした。合間には子どもたちと一緒にバレーをしたり、ゲームをしたり。みんなの笑顔が、確実に私たちの原動力です。
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一方BOP隊は他教区の方々の応援を借りながら、恒例の出張風呂に加え、現地で要望のあった常設風呂の建設に早速着手。前日の活動で大まかな基礎を作り、5日午後にはコンパネ、角材で屋根つきの常設風呂を完成させました。しかもシャワー付き!テントでの出張風呂のほうもご年配の方を中心に利用してもらい、みなさんの爽快感のある表情がとても印象的でした。最後には月浜の海岸から集めた流木をつかって「B」「O」「P」の看板作り。子供たちにも思い思いのイラストを描いてもらってこんなににぎやかな外観になりました。
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東松島、特に奥松島地区の状況は、同じ被災地でも私の住んでいる岩手県南、気仙地区や気仙沼より厳しいと思います。道路網も未整備ですし、壊滅的な被害の野蒜海岸付近はほぼ瓦礫が手つかずの状態でした。その中でも宮戸島の方々からは「家族」感というか、漁村独特の一体感をものすごく感じました。このご縁をきっかけに長いスパンでおつきあいできたら、と思った、こどもの日でした。

2011年5月4日 こどもご縁忌

子供御遠忌に参加致しました。
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全国の皆さんの、震災への関心の高さに驚きました。


小学生の子供たちが、自分のお小遣いから募金してくれたりしました。


また、まだ字の書けないお子さんが「メッセージを書きたい」と、ペンを手に取ってくれました。


何と書いてあるかを読み取れなくても、その気持ちは十二分に伝わると思います。


今回の子供御遠忌に参加して、何よりも次世代を担う子供たちの笑顔、活気に

満ち溢れている姿が印象的でした。


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一生懸命おつとめをしている子供たちを目の当たりにして、親鸞聖人の教えが後世に伝わっていく歴史を感じました。


また全国の方々と色々なお話ができました。


とても貴重な経験をさせていただきました。



ありがとうございました。

2011年5月4日 縄文村に行く 

NEC_0489.jpg月浜・縄文村

 5月4・5日のBOPに参加しました。場所は東松島市、野蒜海岸の奥にある縄文村と月浜の避難所です。二か所に合わせて約90名の方が避難されています。

 今回のBOPでは、仮設風呂と無料バザー、腕輪数珠作り、炊き出しに加えて月浜の民宿にお風呂を設置してきました。

 月浜は昨年夏、家族で海水浴に来た場所でもあります。穏やかで遠浅の海岸は小さな子どもたちにもとても優しく、多くの家族連れで賑わっていました。震災直後から随分気になっていたのですが様子が分からずにいたので、今回の訪問は私にとってはお世話になった御恩返しのような気持ちもあり、特別なものでした。
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 月浜と縄文村のちょうど真ん中辺りに宮戸小学校があります。この小学校を中心に宮戸地区には全体で約400人ほどの人がいらっしゃるということでした。多くの方とお話しする機会がありましたが、それほどの方がいるにも関わらず、ボランティアや民間の支援団体はほとんど訪れていないのではないかな、という印象を持ちました。というのも、「ここまできてくれたあなたたちは一体どういう人たちなのか。」と皆さん聞いてくださるのです。今まで何ヶ所か避難所を訪れましたが、たいてい多くの訪問を受けていらっしゃるので、ボランティア慣れしているというか、私たちに対して興味を持って声をかけてくださる方はそれほど多くはなかったような気がします。そして、炊き出しにせよ、無料バザーにせよほんとに心から喜んでくださり、「焼き鳥が食べられるなんてすごく嬉しい。」「野菜炒めなんて、何か月ぶりかしら、ピーマン食べるなんて震災以来初めて。」などとおっしゃってくださいました。
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 聞けば、あの日、地震の後みんなでバスに乗り合わせて高台の小学校に避難したそうです。そして、二週間、野蒜海岸が水没したため完全に陸から孤立し、電気もなく水もなく、携帯電話もつながらず、ラジオの情報だけが頼りのなか、(そのラジオも一週間後からは原発のことしか言わなくなってしまい、他の場所がどうなっているのか情報が全然なかったとか。)、海水の入らなかったお宅から米や食べ物を持ち寄って、地区の方たちがぎゅっとひとつになって乗り越えたとおっしゃっていました。「2日後に自衛隊が空と海から救援物資を運んでくれた時は、ああ、俺たち守られているんだ、と心から思った。」という言葉に、いかに厳しい状況であったか推察されました。
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 宮戸地区の方たちは本当に温かい。仙台から来た、と言えば「お宅は大丈夫だったのかい?」と逆に心配してくださり、「休みの日に、朝から晩まで2日もかけてお風呂作ってくれて、炊き出しまでしてくれてねえ。」とねぎらってくれ、「楽しいゴールデンウイークになりました。」と明るく笑ってくださり、帰る際には縄文村と月浜、どちらも皆さん全員で(こんなことはBOPでも初めてです)、私たちの最後の車が出発するまで頭をさげ手を振って見送ってくださいました。

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 「今年は無理かもしんないけど、来年は子どもたち連れて海水浴に来い。いいとこだぞお。」とおっしゃったお父さん、私もそう思います。山里も海も人も穏やかで優しい宮戸地区。ずっと長い時間かけてお世話になりたい場所だと思いました。

2011年5月4日 こどもご遠忌報告

子ども御遠忌~忘れられない思い出~


5月4日は子ども御遠忌でした。


3月11日以来、連日続く余震に怯え、

悲しいお知らせに泣き、自坊の修復にぐったりし

色々なことで頭がいっぱいになっていた私にとって

一生涯忘れられない感謝の一日となりました。


当初は開催中止なのだろうか・・・

もしくは仙台仏青からは不参加か・・・

と考えていた子ども御遠忌でしたが

メンバーの中から「ぜひ参加しよう!」という声が上がり、

全員一致で参加を決意しました。

仙台空港は瓦礫に埋もれ、新幹線の復旧も未定

そんな中での決断でした。


幸い4月29日に東北新幹線が開通!いざ京都へ!


子ども御遠忌には本当に大勢の子どもたちが来てくれました!

仙台仏青のブースでは、被災地の状況を撮影した

写真の展示を行い、オリジナル缶バッジ、風船をプレゼント。

そして被災地の子どもたちへの応援メッセージも

お願いしたところ、沢山の子どもたちが書いてくれました!

(一緒に来ていたご家族からも沢山のメッセージをいただきました)


「字、書けるようになったんだよ!」

「・・・字わかんないから絵でもいい?」

「ぼくも書きたい!!おーえんする!」

「・・・つなみ、テレビで見てこわかった・・」

子どもたちは色んなことを話してくれました。

遠く離れた所に住んでいても、テレビを通して、

色々感じ取ったんだろうなあ。

震災のことは分からない小さな子どもたちも、

ご家族といっしょにペンを握り一生懸命書いてくれました。


最終的には500通以上のメッセージが集まりました!!!


さらになんとエンディングではメッセージを書いた短冊の贈呈式が

行われました。

御影堂満堂の中、私たち仙台仏青ブーススタッフは

鸞恩くんたちに手をつながれ外陣に。

そして子どもたちの代表から、沢山のメッセージを受け取りました。


多くの方々の温かい気持ちへの感謝と

今日ここへ来れたうれしさ

被災地の状況を言葉で伝えきれない悔しさ

来たくても来れなかった人たちの思い・・・

もう言葉では言い尽くせない感情でいっぱい。

涙が止まりませんでした。


本当に本当にありがとうございました。


50年後の親鸞聖人800回忌は

今日ここに来ていた子どもたちが担っていくんだろうなあ。

もちろん私もお参りさせていただきますよ!


5月4日の子ども御遠忌、

私にとって一生忘れられない感謝感謝の誕生日となりました。

2011年5月3日 さあ!京都本山に行こう

4月21日

震災後 初の仏青全体会議!

みんな来るかな…元気かなあ…そんな不安は一気に吹っ飛びました。


やっぱり仏青メンバー

みんな明るかった!!熱かった!!


震災後、それぞれが大きな被害を受けた。建物はもちろん、心も。

それぞれ声には出さなかったけれど、今日集まったメンバーの心にはいっぱいいっぱいになりそうなくらいの思いが詰まっていたんじゃないかな。来たくても来れなかったメンバーももちろん。


あの惨状を目の当たりにした人。家族を守るのに必死だった人。自分の無力さを責める人。家が壊れてしまった人。親戚が亡くなってしまった人。帰りたくても帰れない人…。

それぞれが色んな問題抱えている。

それでも今日、ここに集まってきたのは、一人一人が

「自分に何かできることはないか」

という強い思いを持っているから。


今回は

「BOP」の活動の報告とこれからの展開について、また5月4日に行われる子ども御遠忌について話し合いました。


意見の衝突もあったけど、やはり、根底に持っている強い思いは 共通。顔を突き合わせ、とことん語る!それができる場が仏青だなあ…と感じました。


話し合いの後は

久々にみんなで夕飯!私は震災後初の外食でした。

近所の榴ヶ岡公園は桜が満開。

春の陽気に誘われ、お酒も飲みつつ、みんなで語りました。時間が許すのなら、何時までも語っていたと思います。


仙台仏青、これからも「BOP」をはじめ、それぞれがそれぞれの現場で、できることを精一杯させてもらおうと思います。

2011年5月2日 子供ご遠忌に行く

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5月4日に東本願寺で子ども御遠忌があります

10時からのオープニングパレードで始まり16時にエンディングで終了です。

その11時半~15時の間に各種催しがありそこに仙台仏青もブースで参加させていただきます。

語弊があるかもしれませんがイメージとしては祭りの縁日の様な感じです

ブース名称は「仙台仏青バッジ屋」で参拝接待所横でブースを構えています。

そこではBOPの時の写真や、被災地の写真も掲載します。


また被災地でがんばってる人たちをチェキで撮らせてもらい、そこにメッセージを頂きましたのでそれも展示します。

さらにドラム缶のディスプレイも設置しBOPの雰囲気も味わっていただく予定です。

他にも仙台ブースでは「聞いて!見て!僕から君へのメッセージ」というコーナーを設け、そこで短冊に被災地に向けてのメッセージを書いてもらう予定です。



メッセージを書いて頂いた方にお礼も込めてバッジをお渡しします(バッジは無くなり次第終了)

仏青手作りのオリジナルバッチになります。



短冊に書いてもらった想いは被災地へ届けます

子ども御遠忌にお越しの際は仙台仏青ブースにお寄りください。

そして是非短冊にメッセージを書いてください。

あなたと被災地を結ぶ架け橋に仙台仏青がなります。