2011年4月30日 二日続けて宮城県山元町山下へ

山元町山下第一小学校。

2日目の反応は前日よりも明らかにいい。

特に無料バザー。もちろん「こんなのがほしい」というのを聞いてから準備したということもあるが、次から次と用意した物がなくなっていく。すごく嬉しい反面、3月11日の本震からこれほど日が経っているのにこうなのかと驚く。

用意したものは下着(男性ものがたりないとか)、洋服、ジャージ、エプロン、日焼止めやハンドクリーム、ライト、ラジオ、乾電池、、歯ブラシ(歯磨き粉がなかったので補充)、子どものおもちゃ(ぺったん人形?は大好評)、野菜ジュースなど。

これから着れる薄手の服や、スカーフ(なかなか髪が洗えないので頭に巻くそう)、できればタッパ(配給の時には仕事に出ている家族に取っておくため)がほしいとの声も。

1日目のカレー炊き出しの時に「肉は汁物とかに入っている肉くらいかなぁ」「焼き鳥やって、やって」「青い野菜がいいねぇ」という話になったので、次の日は奥羽からもらったバーベキューセットを持って行って焼き鳥。青い野菜入りの煮物。仲間のパティシエ作のタルトも用意。皆、おかずでいっぱいになったトレイを運んでいく。

「食べるものはけっこう大丈夫なんだ」とご婦人。だけど“いつものように”好きな物を作れるわけではない。願っているのは、ごく当たり前の普通の生活。


お風呂も角田の浴場やホテルへバスで移動して入ることができる。でも誰かと一緒だし、時間も限られている。僕らの風呂を「うちのお風呂よりも立派だよ」と言ってくれるお母さん。常駐している役場の人も同じアパートなんだそう。職員さんも2人とも入ってくれた。本当は“いつもの”自分のお風呂がいいはず。でもやっぱり喜んでくれる。


子どもたちは元気。今回「てんかいち」という遊びを覚えた。ボールをもったら10歩まで動けて、ひたすら当てる。当たったら休み。自分に当てた相手が当てられるまで戻れない。たくさんの人を当てている人は狙われやすくなるという、ボール鬼に似た遊び。おもしろい。

数珠づくりも人気で、夕食時までかかっていくつもオリジナル数珠を作成。「津波を校舎の屋上から見た」と話していた子は両腕いっぱいに作ってくれた。


「今度は水鉄砲を持ってきてね」という約束をして子どもたちと別れる。

震災で“普通”がべっこりとへこんでしまった。僕らの“普段の”時間を少しずつ合わせて、へこんじゃった “普通”を取り戻す力にならないかなぁと思う。

2011年4月29日 炊き出し+甘いケーキでも足りないも沢山

4月29日 山元町の山下第一小学校でBOPをする

今回、訪れたのは山元町の山下第一小学校。

天気は快晴で絶好のBOP日和でした

今回の参加メンバーは仏青、チーム二本松、知人親子、その友人、そして知人いとこのパティシエの人も参加してくれました。

総勢11名集まりBOP開始です。

まずはテントを立てて、浴槽を設置して、ボイラーを取り付けて、薪を燃やして、それに並行して炊きだしの方も準備します。


今回の炊き出しはカレー。避難所の配膳でご飯が出るのでメニューを一品追加で出しました。

ちなみに配膳のメニューはご飯と豚汁。実は明日、豚汁を作る予定でした。今日と明日メニューが逆だったら完全に被ってましたね。アブナイアブナイ。

教訓。炊き出しするときには配膳のメニューを事前に聞くようにする。大事なことです。


カレーは思いの外、否、予想通り好評でした。

150食分と多めに作ったので急遽夕方もカレーを提供することに

煮込むとさらに美味しさが増すはず。

ちなみに今回のカレーはパティシエ氏による制作です。

調味料を目分量でさらさらと入れる辺りは慣れた感じがあります

そして今回のスペシャルメニューはパティシエ氏特製のケーキデザートです。

これはうれしい。避難所でケーキなどのデザートが出る機会も少ないだろうし喜んでくれるでしょう、否、喜んで頂けました。

パティシエ氏はわざわざ前日に那須から来ていただき手作りでケーキ等のデザートを作ってくれました(拍手)

ゴールデンウィークという忙しい中、有給休暇を取ってまでお越し頂けました。ホント有り難いです。

そんな好評の中、お昼の炊き出しの部は終わりました。

いよいよ、お風呂の出番ですが・・・待てど暮らせど入浴希望者が来ません。

最初の一名を案内してからは続きませんでした

最終的に夕方くらいから少し増え、延べあ10人くらいは入っていただけました。

避難者数は130人くらいいるんですが、日中は帰宅していて人がいなかったこと。

近くで自衛隊の入浴サービスがあることなどが入浴者の少なかった理由です。

でも人数ではないですから。一人でもお風呂を欲してくれる人がいれば提供します。


お風呂と隣接して青空フリーマーケットも開催しました。

無料で必要な物をお配りします。


〈需要があった物〉


女性用の下着。これは細い人用より少し大きめの方が需要があります。それでも各サイズ揃えたいところです。

ガーター、キャミソールのパット付きの物。男の私には分からないんですがそういう物が便利そうです。どうしても物資を配るときに男目線になりやすいので、そこら辺のケアが重要です。恥ずかしくていえないとか、我が儘はいえないとか、声にならない声を聞くことが必要です。難しいんですけどね。


避難所の年輩の女性が言ってましたけど着替えるスペースが無いそうです。

避難所の体育館はプライバシーが無く他の目を気にしますし、トイレも簡易トイレで着替えるスペースがありません。

なのでいつもお布団の中で着替えてるそうです。

更衣室を作ってもらったらいいんじゃないですかの問いかけに、我が儘は言えないと答えてました。

我が儘では決してないと思うんですけどね。


懐中電灯も非常に人気でした。体育館は21時頃に消灯するらしいです。消灯後に本を読んだり、物を探したりする時に重宝するそうです


ラジオ。これも人気がありました。


他にも年輩の男性が言っていましたが、配膳にはほとんど野菜が出ないそうです。なので野菜を食べたいと仰ってました。サラダを準備するのは難しいですが野菜ジュースも需要がありそうな気がします。


それと配膳にはお肉があまり出ないらしく、今回配給された豚汁にも少ししか入ってません

育ち盛りの子どもたちはがっつりお肉を食べたいと思うので、明日は焼き鳥の炊きだしをする予定でいます。


需要は場所や時間により刻一刻と変化するので被災地の人と会話をしながら対応していきたいです。


P.S.

BOP中にそのまんま東さんが避難所を訪れました。べ、別に僕はミーハーじゃないですから

2011年4月28日 BOP明日の準備OK

4月28日 BOP前日テント張りに行く


いつもなら当日テントを張り浴槽を設備しかまどを取り付けしてと準備するんですが、今回は仏青のアウトドア班リーダーが不在のため急遽前日に現地入りし仮設することに。


テント張りはリーダーが中心にしているため不在ではテントや浴槽の準備等ができない可能性があります

ということで今回はリーダーの助手で山下第一小学校に行ってきました。

今回も家庭用浴槽二機を使います。

最近は大きめのテントを中央で区切って一つのテントで二つのお風呂場を作ってます。


もちろん脱衣場所や洗髪場所もあります。

薪を燃やしてお湯を沸かすのですがそこもテントにかかって焦げないように気をつけて設置します。

ということで意気揚々と出発したのですが風が強い強い

仙台は強いけど現場は大丈夫かもと淡い期待を持ちましたが現場も


風が強い強い

ということでテント設営や浴槽、かまど設置のレクチャーを受けることに

色々とコツがあります。


テントを張るときここから巻くとか、ここが角になるとか、風が強いときにはこれを付けるとか、浴槽のこの部分は無くなりやすいから注意するとか、かまどの煙突の固定の仕方とか他にも色々あります。

でも小さなミス、些細なミスなら許されるのです(たぶん)

一番してはいけないミスを教えてもらいました

それはかまどを設置するときには平らなところに置くこと

浴槽とかまどをチューブで連結する際には必ず浴槽の方を高くすること


この二点は注意です。

注意を怠るとかまどが爆発するそうです。

理由は省略しますがこの点だけはしていけないミスです

大事故になっちゃいますからね



リーダーがいないのは不安だけどこういう経験も必要です

「分からないことがあれば電話して」と心強い言葉を頂きましたが現場班で何とかしてみます(たぶん)

BOPではいろんな体験や経験をさせてもらえるんだよなぁとしみじみ感じます。

2011年4月28日 BOPのプレゼントについて



お風呂設置の要望が増えてきています。


現在まで避難所にいる人たちは、他に移動することができない場合が多いためと思われます。


今はまだ自衛隊のお風呂があるけれど、自衛隊撤収後のことが心配だという所、NPOや役場、ボランティアセンターなどあちことに呼びかけているけれどなかなか返事が来ないという所、生活してる方の要望と、土地の管理者の許可があれば僕らで設置して来ようと思います。


添付の写真は、仲間の大工さんと一緒に作ったお風呂第一号です。

僕たち自身初めから考えていたわけでは全然ないんですが「ほしいという声にこたえたい」という思いからやってみました。


また仏青・お風呂・プレゼント・プロジェクト、BOPPについてご質問をいただいたのでお答えします。


・お風呂は常設ですか?

はい常設です。これまでは、テントで設営して終了後撤収していましたが、木造で簡易の小屋を建ててきます。


・何を置いてくるのですか?

常設の今回は浴槽、まきボイラー、すのこ、風呂用具一式、水タンク300Lを置いてきました。


・需要は?

女川や気仙沼など僕らが行った範囲では、小さい避難所を中心にこれからもあると思います。また、大きなところも自衛隊撤収後を心配している声もいただいています。


・費用は?

正規だと業者に問い合わせると浴槽とボイラーで13万円くらいです。知り合いに無理をいって風呂5万円+水タンク、風呂用具一式代などです。木材は地元調達(これは場所によります)。


・運用は?

基本的に避難所の皆さんにおまかせです。何かあれば連絡いただくようにしています。


・資金は?

現在は全国の皆様からの支援金を仏青活動費として使わせていただいています。教区からも活動費という形でいただきます。今までは、領収証の受け渡しなど状況的にとても難しかったため殆どがメンバーの立て替えによって賄っていました。これからは、先に活動費としていただける方向になりそうです。


御連絡は仙台仏青ボランティア事務局まで。

2011年4月28日 BOP活動下見に行く

4月28日 BOP場所の下見に行く


今回は29日、30日に行う予定のBOPの場所を探しに行きました

基本的にBOPをする前にその場所でそれをさせてもらう交渉をします.。

交渉の仕方も電話で問い合わせる方法や直接避難所にお伺いして交渉するやり方があります。

今回は後者のやり方で直接避難所に赴き交渉することにしました

今回は南下をして宮城県の亘理町、山元町、福島県の新地町、相馬市に行って来ました。



どこの町もそうでしたが避難所に直接お話をさせてもらうとまずは役場や市の窓口に問い合わせてくれと言われます。


今回訪れた四つの町でもほとんどの避難所が行政が管轄しているみたいで交渉する際には行政の窓口を通さなければいけません。

北の方は自然発生した避難所が多いのですがこの辺りではほとんどが統合されており行政窓口に行くと情報が分かります。


それなら最初から役場に訪問して交渉すればいいのかと思うとそうでなく、実際に避難所に行き現場の声を聞いた上で行政にお伺いした方がいいのです。




需要があるかどうかは避難所でお話させてもらうと大体分かります

避難所で代表の方と話をさせてもらってる時に傍で聞いてたおばちゃんが「それいいね」って言ってくれたりするとその場での交渉がスムーズになるのです。


現場の声は重要なのです。


避難者の方が「それいいね」って言ってくれても、行政に問い合わせると「自衛隊のお風呂が近くにありバスで往復してるから需要はありません」と言われることもあります。

避難者の人の中にも必要としてくれてる人もいるのに残念に思うこともあります


今回、四つの町を回りましたが承諾を得られたのが山元町の山下第一小学校です。

ということで29日30日はここでBOPを決行します。

この避難所では今でも130人程の避難者がいます。

この地域は直接津波の被害があったわけではありませんので、その避難者は海沿いの方から来た人や地震で家に住めなくなった方が多いようです。

ですのでライフラインは復旧しており学校の校庭内に洗濯機も常設していました。

今回はお昼に炊き出しをして欲しいということなので先に炊き出しをしてお風呂になりそうです。

ということで29日30日にBOPをしに行ってきます。

2011年4月28日 仏青の声

Confused —混乱する—

震災後、私の頭の中はずっと混乱している。

経験したことのない大きな大きな長い長い揺れと、いつまた起こるかわからない余震への恐怖。

当たり前にあったライフラインが絶たれたときの動揺。

ラジオで聞いても、映像で見ても、すこしも現実のこととして受け止められない津波、そしてちっとも理解できない原発。


岐阜の実家に子ども達を連れて避難したとき、あまりの平穏さに強い違和感を覚えた。

仙台へ帰って子ども達の学校や幼稚園が始まった。ライフラインが復旧し、お店や交通量が戻り、ふと気がつくと、あんなことがあったとはとても思えない穏やかに見える街並みと生活が戻ってきている。


BOPに参加した。女川の避難所へ行く道すがら、目に入る凄まじい状況、津波の爪痕。それが、穏やかな春の景色の中に突然現れる。そして、また、いつもの穏やかな景色に戻る。それの繰り返し。

頭の中がまた混乱する。


避難所には日曜日でボランティアが次々訪れている。次々やってきては、次々帰る人たち。それとは違う次元にいるかのような避難所の方々。私なんかが作るものより、はるかに美味しい料理を作れるであろうお母さん達に豚汁を作る罪悪感。「気持ちよかった、ありがとう。」と言って入ってくださるお風呂だって、夫がいつも使う「入ってもらっている」という表現が正しいのだろうと強く感じる。いままで当たり前だった食べることに、お風呂に入ることに、いちいち「ありがとう」と頭を下げ続けて、ひと月以上生活している避難所の方たちと私たち。何ができるのか。何かできることがあるのか。重機が使えるわけじゃない、力仕事ができるわけでもない、専門知識があるわけでもない、何もできない。

火を囲んでいるお父さん達と少し話をした。「草取りでもして食っていくか。」「なあに、漁師しかできねえべ。」

「これからどうにかしていくって言ったって、この歳じゃあどうしていくもどうしようもない。」そう言って、これで三軒目くらいだという家の柱を燃やした火の回りで、「今日の炊き出し、楽しみにしてるよ。」と笑ってくださる。なんだこれは。

 帰宅して泥のついた荷物を片付ける。中に「何にもないから。」と帰りに持たせてくださった泥を被った帆立の干物が一箱ある。あの、お父さん達が作っていたものだろうか、と思うとまた鼻の奥がツンとする。

近くに住まう者として、できることを、できる限り、するしかない。

2011年4月26日 避難所にて腕輪念珠作る

4月26日 仙台市六郷中学校に子どもたちと腕輪念珠を作りに行きました。


この学校は何度かの訪問になります。


お昼過ぎ、まず始めに武道館にある避難所に行きました。

この六郷中学校には武道館と体育館に避難所が別かれています。

この武道館には学校が始まっているということもありほとんど子どもがいませんでした。


参ったと思いながらもここで帰るわけにもいかずに大人の人たちに声をかけさせてもらい細々と始めることに、

最初は少ししか集まらないんだろうなと思ってたんですが声をかけて集まりだしたら一気に人が増えました。

あれよあれよという間に15人くらいの人が集まることに

13時から始めて15時までひたすら念珠を作ってました。

みなさん楽しそうでどの柄の玉がいいか賑やかに話しながら作ってました。それで15時の予定の時間になったのでそこの武道館を切り上げ体育館の避難所へ


このくらいの時間になると子どもたちが学校から帰ってきて戻ってきます

この体育館では何度か念珠作りをしており慣れた感じで体育館ステージに案内されます。

そしてそこで念珠作りをしていると次から次に人が集まりみんなで念珠作りが始まります。

念珠作りといっても紐に好きな玉を通してもらって最後の大玉と結びを私たちスタッフがお手伝いするような感じで作成してます。

一人二個以上作るのは当たり前で中には五個以上も作る強者の小学生もいます。


念珠を作りに参加して頂いた人たちは下は三歳から上は七十歳を越えるおじいちゃんもいます。

念珠作りに年齢や性別は関係ないんですね。

みんな笑顔でこの色がいい、あの色がいいと楽しく作っている姿を見るとうれしくなります。


「これ、うちの父さんが誕生日だからあげるの」とうれしそうに話してくれたお母さんがいました。

「お念珠の玉を108個にしたいんだけど」という拘りのあるおばあちゃんもいました。

「この念珠で手を合わせたいんだけどお墓全部流されちゃったんだよね」と笑顔で語ってくれたお母さんもいました

「小学二年生と四年生の孫にあげたいんだけど作ってもらえますか?」というお母さんもいました。

「この玉持ってきたんだけど使えるか」というおじいちゃんもいました

最後にお弁当と炊き出しのうどんとゆで卵をごちそうになりました

またお土産まで頂きました。ごちそうさまです



そして19時前くらいにその場を後にしました。

またみんなの笑顔に会いに来たいと思ってます。

2011年4月25日 津波災害のお寺に泥浚いに行く


4月25日 若林区にある仙台組のお寺に泥浚いに行く


今日から三日間、津波の被害に遭われた若林区にあるお寺に泥浚いに行きます。

参加メンバーは組内寺族、門徒を中心に仏青、組外寺族、仏青メンバー知人、教務所所員、列座、他にもこのお寺の坊守さんや娘さんも参加しまして総勢20名くらいになりました


この若林区は海沿いを中心に津波の被害に遭いました

本堂は倒壊はしませんでしたが、倒壊の恐れがあり近寄れない状態です

庫裏は一階が浸水しました。二メートル程の浸水後があります。また床一面に泥が散乱していました。

今回の作業は庫裏の床に散乱している泥の除去になります

一口に泥といっても木材やガラスやビニールなどが混在しており中々作業が捗りません

他にも泥で汚れた家財の撤去も行いました

海水で浸かってるためほとんどが使えない状態にありましたが坊守さんに相談しながら捨てる作業を行いました

捨てるもの一つ一つに思い出、思い入れがあります

アルバムを見つけました。泥がびっしり挟まっており修復が難しそうなので相談の上捨てました。

着物や帯を見つけました。その華やかな柄も海水で滲んでおり捨てることになりました。

その中でも使えそうな物、着れそうな物が見つかれとうれしかったです。よく無事でいてくれたって気持ちになります。

今日は泥浚いの作業で終わりました。

明日からは内壁や床を綺麗に拭く作業に移ります

2011年4月24日 BOPからBOPPへ

4月24日 BO『P』P 石巻市小網倉浜

今日は快晴。

昨日の小学校では、雨と風、泥に苦しめられたけど、風もなく青空が広がっています。


昨晩帰った後、泥だらけになったテントやブルーシートを広げて雨で洗いました。

それを早朝に積み込みして出発。

三陸道を通り、牡鹿半島を南下して小網倉をめざします。



ここをはじめ、牡鹿半島の多くの避難所は自治体の指定場所ではなく、

震災後に自然に集まったかたちのところばかりです。

役場の職員がいるのではなくて地元の人たちが協力しあって生活しています。



先日の話に遡りますが、以前仲間が訪れた避難所へ一緒に向かう途中で、たまたまここに寄りました。

その時、「何をする人たち?」という質問に「お風呂を“やり”に来ました」と答えると、

今までのBOPでは経験したことのないような大歓声が。ものすごい歓迎ムードです。

「どうぞどうぞ、こっちです」と促されるままついていきます。



よくよく聞いてみると、数軒残った家を避難所にしていて、他の場所に移動するあてもないので、

お風呂常設を様々なところに呼びかけていたまさに真っ最中だった模様。

一緒に行った仲間からは、あの時「お風呂“つくり”に来ました」って言ってたよ、と。

そんなこと言っちゃったかな。



このことがあって急きょ、B・O・P・P、仏青・お風呂・プレゼント・プロジェクト発動です。

昨日、小学校でお風呂と炊き出し、洗濯機をしている間に、仲間の大工さんを連れて現場への下見。

「できっかなぁ」というつぶやきに、うちの会長が「できるかできないかじゃなくて、やるんだ」と。

本当は、こちらで材料を揃えて作っていったものを設置する方がはるかに簡単らしいのですが、

木材など、現地の物を利用します。大工さん、不安で若干へこんでました。




現場に入ったらとにかく「やる」のみ。テントでお風呂設置、炊き出し、物品無料バザー、

数珠作りの横で津波でばらばらになった家の木材を集めて、作業開始。

僕に限って言えば、「コンパネって何?」「うち、バールはないけど釘抜きあるよ」レベルです。

あまりの拙い様子を見かねて、地元の皆さんも一緒にトントンカンカン。

皆、周りに集まってきて、様子を見ていたり手伝ったりしてくれます。


夕方、BOPP1号機、ついに完成!

拍手、握手、拍手。


やったー。やればできるもんです。仲間の大工さんも満足げ。よかったね。おいていかれなくて(居残り?)。

地元の人たちはたくましくて、こういう風にできるんなら、あとはこの要領で改造とか増設とかしてみるそう。

今後が楽しみです。


状況はしんどいです。でも生きていく。

これからも要望があればBOPPやります。

2011年4月23日 様々な思い

4月23日 石巻市立住吉小学校


さてさて、この週末にかけて宮城県・石巻市へ行ってきました。


石巻といえば津波の被害を受けた地域です。目的は炊き出しとお風呂。



ワタシはそもそもボランティアってほとんどやったことがないのです。


Give and Takeでいえば、完全にGiveされる側の人生を送ってきたのですから。


そんなワタシがなぜボランティアなんかを?とお思いですよね。


うまく言えませんが、どうもワタシには今回の震災が他人事には思えなかったの

です。


話が長くなりますが。ワタシには大学生当時、好きな娘がいました。


まあ彼女には振られたのですが\(^o^)/


彼女の実家は、海岸から徒歩数分のところにありました。


3月の震災後、どうにも安否が気になってしまい、思わず連絡をしてしまいまし

た。


ハイ、女々しいオトコです<(_ _)>


結論から言いますと無事でした。しかし、家は津波でやられてしまったとのこと。


いま彼女は結婚していて子どももいるらしく、赤ん坊のことを考えて遠くに避難

したらしいのですが。


「とにかく命があるだけでよかった」


そんな彼女の前向きな言葉、生きようとする姿勢に自然と涙が出ました。




さて、今回は石巻市の避難所にいる方々とお話しする機会があったのですが、


「自然災害なんだからしょうがないよ」


「壊れたものや流されたものは、もう一回作ればいいんだ。生きてるだけでよか

ったわ」


「福島も原発で大変だろ?お互い頑張るべ」


そんな彼らの言葉と好きだった彼女の言葉には、何か共通点を感じます。


うまく言えませんが、生に対する前向きさ、明るさです。


これはとても意外なことでした。


長々と書いてしまいましたが、今なら大きな声で言えます。


がんばろうって。

2011年4月20日 各避難所、再訪問

4月20日BOPの地、再訪「またね」

仙台市の中心街は物流やお店の営業状況も含めてて大分復旧が進んでいるように思えます。
電気、ガス、水道も全体として回復。一見、日常です。
給水タンクが壊れてしまった建物や、蛇口、風呂、調理場などが使えない家、入れない家もあり、
津波被害などのため使えない学校も多く、避難所になりながらも共存のかたちで再開する施設もあります。

仙台仏青(若手のお坊さんとその仲間チーム)は、お風呂や食事の炊き出しをしながら物資を届けています。
宗派の動きを待てずに、自分たちのやりたいことをやってしまっていますが、
関われる範囲は狭く、できることはとても少ないです。

今回、今までに行った避難所を幾つか回ってきました。
やっぱり状況は刻々変化しています。

お寺の幼稚園施設が避難所になっている所では、500人ほどの人が避難してきて人も車も溢れていたそうですが、いろいろ衝突もあるそうで、ケンカ別れのようにして出ていく人もいて、
その人たちは一階が津波に浸水した自分の家に帰って行ったとのこと。
4月7日夜の震度6強の余震による停電の際は、かなりの人が一時的に避難所に戻ってきたようです。

ひと月ほど経って70人くらいになった頃に僕らがお風呂開設。
幼稚園の教室やホールに分かれて生活していました。テントの下にはプロパンのガス台。
女性陣が集まって、ドラム缶にマキをくべて、いどばた会議。
おじさんたちは園庭に運んできた壊れた木材を焚き火にしています。
はじめはお寺の人が介入していたけれど、強く言う役が必要になり、避難所の中で会長や料理長や自警団ができていました。

パンが毎日配られても焼くこともできず、つけるものもない。それぞれの人が段ボールに手つかずのパンを持っています。
子どもたちがとにかく元気で、抱っこしたりおんぶしたり一緒に走ったりで、体はへとへとだけど僕たちが元気をもらってきました。
お風呂は2日間とも終わったら宴会で、いろんな物を作ったり出してきたりしてくれました。

それから10日経った今日は入園式と卒園式。園内はきれいに片付いています。
避難所になっている部屋には25人くらい。子どもたちも半数くらいは帰って行きました。
テントやガス台、たき火もありません。発電機やトラックも隅に寄せてあります。
今月いっぱいで避難所を解散する予定だという内容のことを、小学生の男の子が教えてくれました。

本当はいつでも家に帰れて、仕事に戻れるけれど避難所のために残ってると言っていた会長さん、
元気に酔っぱらっていたお父さんたちも心なしか元気がないように見えます。
目指してるのは日常だけど、皆で乗り越えていたことを今度は、それぞれが現実と向き合っていく。
本当にできることの小ささを感じます。

帰り際、「明日も来てね」という子どもたちに、明日は無理と言うと、また来ることを指切りさせられました。
また来たい、これからも来たいけど、どこに行けば?
僕たちに何ができるんだろう。悩みは常に浮かんでくるけど、体当たりでぶつかっていきたいと思います。



「またね」と、堂々と言おうと思う。

2011年4月17日 新たな地 宮城県女川町に行く

4月17日 女川のお寺にてBOP活動をする


今回は避難所にもなっている他宗派のお寺さんにてBOPと炊き出しを行いました


参加者は仙台仏青、チーム二本松、若坊守さん、大学生、地元の親子連れ、京都組、大谷大学のK先生と15名くらいの参加がありました


女川は海と山の自然に囲まれた街です

海沿いは津波の被害で街はほとんど流されほとんど土台や骨組みしかありません

山沿いは津波の被害を免れ、今では電気が点いてる家もあり、同じ地域でも被害の状況が全く違うのを目の当たりにしました

それは数百メートル車を走らせるだけで別世界を思わせます


今回訪れた保福寺さんは山沿いにあり津波の被害は免れました

この避難所には70名の避難者、その内10名くらいの子どもがいるそうです

ここでは週に一回、シャトルバスが出ており、そこでお風呂のサービスがあるそうです

そして訪れた2日前にそのサービスが・・・

最初は数人しか入らなかったら申し訳ないからとやんわり断られたんですが、それでも入ってくれる人がいるならばということで決行

結果的に40名程にお風呂を提供できました

また炊き出し用に豚汁100人分作ったんですがこれも盛況でほとんど残りませんでした


自分は今回の滞在中、半分以上の時間を子どもたちと遊んでいました

水風船作ったり、ママゴトしたり、タンポポを探したり、鬼ごっこたり、いろんな遊びをしたなぁ



ボランティアに携わらせてもらって思うことは楽しみながらしなくちゃいけないなって

楽しいからこそまた行きたいと思うし、しんどくても充実感を味わえるんだよなぁ

嫌々やらされてたら続かないし、想いだけでも心が折れてしまう

楽しいからこそ続けられるような気がします


今回のところもまた行きたいな

2011年4月16日 宮城石巻第三弾

4月16日石巻地区大街道BOP





3回目となる大街道清月記にての風呂焚き。今回は奥羽、京都、三重からのメンバーも加わり総勢20名弱。これまでの2つの浴槽に加え京都からのドラム缶風呂2つもプラスし、より効率的に利用してもらえると意気揚揚と準備を始めた。


ところが、準備スタートから間もなく雷鳴が響き、急いで雨よけのテントを補充。その後雨はそれほど降らなかったものの、次第に風が強くなり、しまいにはテントまで吹き飛ばされる始末。砂埃が容赦なく私たちの体、資材、炊き出しの鍋に吹き付ける。…なんとかお湯の準備が出来て、呼び込みに近辺の住宅街を歩いてみたけれども、前回よりも人影が少ない。

風呂焚き場周辺は住宅地で、現地の人の話によると1階では腰~160㎝位の高さまで浸水したとのこと。道路には泥まみれになった家財が文字通り山積みになっている。ある一角で捨てられた家財への書き込みが目に留まった。

「私はこのゴミと1年間過ごします ありがとう、これ以上ゴミを捨てないでくれて 地主」

…収集所だけでは間に合わない為、それぞれが家の前に家財を積み上げている所に便乗して他人の家の前にゴミを捨てている人が沢山居るということなんだろうと思う。ゴミの山の撤去作業をしていた人は「トラックが1台しかないから、捨てに行って戻ってくる間ただ待ってる。」と言って道端に坐り込んでいた。

歩いていると「家は風呂入れてるから」と言う人も何人かいるが、未だに「電気だけ」という人も居るし、まったく人それぞれで「震災後、風呂入るの1回目だぁ」という人も少なくない。夕方から風も落ち着き、お風呂も待ちが出るくらい人が集まった。

「本当にありがとう」「あったまりました」

…お風呂はシンプルで良い。


何かできることがあって良かった。

怒られはしないが声を掛ける人皆が好意的な訳ではない。当然だと思う。肉体的、精神的にも疲労が溜まっているだろうし「それどころじゃない」だろう。

同じエリアの被災地の中でも状況は千差万別。そこで必要とされているものを、押し付けではなく上手に手渡しできるように、もっと状況を知っていきたいと思った。

2011年4月15日 若坊守の初体験!気仙沼BOP~シェフによる釜石炊き出し

《気仙沼BOP編》

4月2日、若いお坊さんが集結して気仙沼にボランティア活動をしてきました。

東北の真宗大谷派の若いお坊さんで結成している「仙台仏青」メンバーが進めているプロジェクト、その名も「BOP」B=仏青 O=お風呂 P=プロジェクト。

名前の通り、被災地でお風呂を作って少しでもリラックスした気持ちを味わってもらえたらというテーマの下結成されたボランティアチームです。


今回初めて岩手組が合流することになり宮城、福島、山形、各地から集まった11人が被災地に集結・・・。

一関インターを降り、現地に向かうと次第に心臓が高鳴ります。

言葉にならない惨状を間のあたりにしました。

私はこの目で見るまでやっぱりどこか実感がなかったのかもしれない。


ここが日本なのか・・・?

家家は跡形もなく崩れ去り、豊かな土壌は瓦礫に埋もれ見るも無残なカオスと化していました。

瓦礫と書きましたが、「瓦礫」には「値打ちのないもの」という意味があるそうで、ある被災者の方は

「あれは瓦礫じゃない 私の家なんだ」

とおっしゃったそうです。

そうですよね。

そこにうず高く盛られた破片のひとつひとつは長年住んでいた方々の財産であり人生であったのでしょう。津波で流されたもの一つ一つに、それぞれの思い入れがあるはずです。


私たちに出来る事は少ないかもしれないけれどほんの少しの一人の力が、10人、20人、30人・・・と伝染して大きな一歩に繋がると信じたいです。

少し高台に位置する「千翁寺」には200人余りが生活する避難所のひとつ。

一足早く着いていたメンバーが黙々とお風呂の準備をしています。

二つのドラム缶でできた五右衛門風呂と浴槽ごと運んだ内風呂を炊き上げるには、かなりの時間と忍耐がいります。



一番に興味を示したのは子供たち。

小さな子供から中学生たちが寄ってきてさっそく一番風呂を堪能します。

よほど気持ちよかったのか4歳くらいの男の子は4回も入りに来てみんなを喜ばせていました。



不思議ですね。

屈託のない子供たちの笑顔やおじさんたちのねぎらいの言葉で心があったかくなる。被災地に行って、我々が元気をあげるつもりがこちらが元気をもらいました。



まだまだ活動の輪を広げ、少しでも多くの人とふれあい忘れ難い被災の記憶を胸に刻んでいきたいと思います。



《シェフ炊き出し編》

4月8日~12日まで北海道の「知床第一ホテル」の皆さんが炊き出しの為、岩手にやってきました。

ベースキャンプ地として私達の住んでいるお寺の道場を提供することになりました。ちょうど前日強い余震に電気を奪われ焦っていましたが、なんとか到着直前に回復し一安心。


知床からはるばる4台のトラックやバンで2日かけて来て頂いたというだけで感動。

ホテルのシェフはじめチーフや新人くんらしき青年の10人で結成されたボランティア隊は夕方到着早々夜遅くまで仕込みをはじめました。


なんと頼もしい・・・

手を出せないほど完璧な連携ぶりに呆気にとられつつ翌日の釜石遠征にお供してきました。



これらを釜石市民体育館に避難されている方たちに振舞います。その量といったら・・・

さすがホテルの方たち。やっぱり現場でも呆気にとられるばかり・・・



北海道の皆さんは少し体感温度が違うのか寒空の中Tシャツ一枚で汗かいてました。逞しい・・・・

その強靭な肉体と笑顔に癒され道行く人は「お疲れさん」「ありがとう」と

声を掛けてくれます。

たった一食の食事がどんなに人を温めてくれることか・・・

前回のお風呂と共通するのは

暖かさ

春の日差しが木々をほころばせる季節とはなりましたが被災地に必要なのは温かいお風呂に温かいご飯、そして暖かい人々のつながりなのではないでしょうか?

空いた時間をぬって釜石市内にある大谷派の寺院にお見舞いに行ってきました。高台にある寺院は津波からは免れていましたが、駐車場には津波で流された車やゴミがあり、ここまで津波が来たことを知らせていました。副住職さんの車も流されたそうです。

お見舞い初日、副住職さんは門徒さんのお家に行っていたそうで、ちょうどお寺にいた住職さんにお話しを聞きました。震災の翌日は静寂に包まれた朝を迎え、街中にお寺の梵鐘が響き渡ったそうです。音を聞いた人は

「何もない中で聞くお寺の鐘は、心に響いた」と・・・。

その音色は、きっと仏さまの大悲としてこれからも釜石の街に響き渡るでしょう。


貴重な5日間でした。

学ぶべきことが沢山あります。

普段当たり前に出来ることをもっとかみ締めなきゃね。

普段忘れている優しさを人にあげられるようにならなきゃね。

2011年4月15日 仏青お風呂プロジェクト「BOP」宮城県石巻地区に行く (第二弾二日目)

4月12~13日、石巻地区大街道にてBOP実施!

前日に引き続き「清月記」という葬祭場の駐車場をお借りして、住宅街の中で行いました。

仙台仏青&チーム二本松で実施。

私は13日から、「BOP」初参加です!!


石巻市の大街道地区は、石巻港から内陸1.5㎞ほどの場所。

海岸線と並行に走る国道398号線周辺のエリアです。

銀行、コンビニ、大きなガソリンスタントなどが立ち並ぶ、市街地。

一見、普通の街並みのこの地区にも床上1.5~1メートルまで海水が押し寄せました。

電気と水は復旧しても、ガスがまだ。お風呂が故障してしまい、修理を頼んでも、

まだ来ない、そんな状況の地区でした。


4月13日、お天気に恵まれ、いざ出発!


実は前日、以前三条教区からBOPのお手伝いに来て下さった方と電話をしあい女性目線から、「BOP」には何が必要かなあ~・・・と相談したところ、色々提案が!

化粧水・乳液、ハンドクリーム、日焼け止め、制汗スプレー、

ヘアゴム、綿棒、シェーバーなどなど。

今後の物資としても使えると思い、持っていきました。

(綿棒、シェーバー、好評でした)


渋滞の中、やっと9時頃到着!

浴槽を拭いて、テントを設置して、汲んできた水をドラム缶で沸かし・・・

その間に私はバスタオルで宣伝用の幟(のぼり)作り!

駐車場の前に設置し、近くを通る方々に宣伝。

住宅街の方々へ手分けして声掛け。

「お風呂いかがですかー?」

「あら~お風呂やってんだっちゃあ~!ありがたいね~」


そんな言葉をかけていただきました。

11:00過ぎからちらほらご近所のおじいさん、おばあさんが来てくださいました!

お昼の時間はやっぱり人は少ない。13:30頃から小学生、中学生、大学生、親子で

などなど人が増えてきました。

また、午後からは高岡教区、三条教区、能登教区のボランティアの方々も寄ってくださいました。

差し入れもいただきましたよ!遠方から、多くの方々が応援に来て下さっていること、

本当にありがたいです。



ところで、お風呂は二か所。そのため、待っている時間はみんなで一緒におしゃべり。

ご近所の方々同士でも、ここに来て初めて顔を合わせたという方ばかりでした。

お互いに、被害状況を話したり、情報を交換したり。

「BOP」では人と人とをつなぐ場も提供していきたいなあと感じました。


あるおじいさん

「43になる家督息子、津波で亡くしてしまってや~・・・」

遺体安置所で必死に探したこと、幼い子供が眠っているかのような表情で

亡くなっていたこと、それを見るのが辛かったこと、

優しい表情でいろいろ話してくださいました。お風呂の後は

「久しぶりのお風呂で、本当にありがたかったね~。がんばります!一生忘れません。」

そう言って帰られました。

「一生忘れません」

・・・かあ。私も一生忘れられません。


この日の「BOP」のラストは小学生の男の子兄弟!

自転車でやってきて、お風呂に入っていきました。

話しかけるけれども、二人とも表情がこわばったまま。

家族は無事で、

近所の小学校で避難所生活、

ゲーム機が壊れちゃったこと

ちょっとだけ話してくれました。


でも、お風呂からあがっても、その子たちの表情は変わらなかった・・・。

お菓子を食べた時に

「おいしい!」

って言ってくれて。ちょっとだけ笑顔が見えた気がしました。

そして、無言のまま、帰っていきました。


あの子たち、今、一生懸命戦ってるんだろうな。

何を見て、何を感じているのかな。友達は無事だったのかな。

何か言いたかったのかな。嫌な思いをさせちゃったかな。

色んなことが頭をよぎりました。

それでも

お風呂に立ち寄ってくれたこと

おいしい!って、ちょっぴり笑顔をくれたこと

本当にありがとう。


ここでは

会話を楽しんでもいいし、そっと一人でいてもいい。

愚痴をこぼしたって、泣いてもいい。肩肘張らず、気を使わずに。

そんな居場所をこれからも「BOP」では提供していきたいです。

2011年4月14日 宮城県石巻第2弾

4月12日のBOPは、石巻市内の清月記(地元の葬祭屋さん)の裏の駐車場でやりました。


午前中は風も強く寒かったので、あんまり人も歩いていなく、2~3人しか入りませんでした。


周りの状況も部分的にガレキの山。

家の後片付け大変そう。みんなお風呂に入る時間もないのかなと不安。

また、この辺はまだ都市ガスがきてないと聞きました。


      「お風呂に入りたい人は必ずいるはず。」


午後からは、近くのクレープ屋さんが、無料で差し上げているのをきっかけに人が集まり始まり、みんなで声かけをしたらお風呂が入れることが皆さんに伝わり、最終的には、15人ぐらいの方にはいっていただきました。


まさかのこんなところに、お風呂があるなんて誰も思わない。

宣伝も必要かなぁと思いました。反省。


いろいろと大変でしたが、BOP隊も皆さんの笑顔をみれてうれしいです。

お風呂の気持ちよさはみんな一緒。

実感。


また、クレープ屋さんにも声をかけてもらい、非常に嬉しかったです。

クレープ屋さんに、感謝感謝です。


ひとの繋がりがあってBOP活動ができるのかなとしみじみ思いました。


また、頑張るぞ。

笑顔は笑顔を呼ぶ。

ひろがれ・・!!

2011年4月13日 余震にめげず再活動

4月9日、10日の2日間石巻の避難所に仙台仏青、三条有志会、チーム二本松、東京もやしっこずなど20名でBOPに行って来ました。


9日朝6時出発、今回は石巻の法山寺という曹洞宗のお寺でやりました。

8時半に現地に着いて、お風呂が沸く頃にはもう子供たちが興味津々でやってきました。順調な滑り出しで30人以上の方々に入浴していただきました。チーム三条が昨夜から準備してきた100人分の豚汁も完売でした。片付けをしてるところに避難所の会長さんがきて「飯食ってってけれー!」との誘いがあった。前回、時間の都合で断ったことを引きずっていた私は「すぐ行きまーす!」とみんなでごちそうになりました。


活動二日目。


10日朝6時仙台を出発、被災地を感じてもらいたいとの思いから仙台港、女川を経由して9時過ぎに現地に入る。今日は美容師さんにも来ていただき、お風呂のほかに美容室も開店することに

お風呂も美容室も大繁盛で惜しまれながら17時閉店

昨日と同様夕食の準備がしてありました。

たくさんの思いがつまったご馳走をいただき、「おいしいご飯が食べたい」との叫びに「絶対コメ持ってきます!」と約束して避難所を後にしました。


缶詰め、カップラーメン、さとうのご飯、玉子焼きなどありったけの食材で懇親会を開いてくれた避難所の皆さん


目を潤ませながら「誰かが悪者にならなくちゃいけねーんだ」と話してくれた会長さん


半年前に建てた家がなくったと笑って話すオジサン


漁師になりたいと言う息子に「大丈夫だぁ!また船買うから」って言ってたお父さん


震災後初めての風呂におおはしゃぎの子供たち


悲しみと怒りの中で避難所の方々のやさしさが痛くてあったかくて有り難かった

ただ何かを提供して終わるんじゃなく、泣いて笑って語り合ってあったかいところでつながっていくことが、本当にぼくがやりたい事なんだと思いました。



初めて被災地を見た時、涙が止まらなかった。だから今回は僕の大切な人に被災地を感じてほしくて娘と息子を連れてきました。


「なんであんなに子供たちは元気なんだろう」


「水がなくて風呂に入れなくておかずもないのにめっちゃやさしいひとたちだったね」


娘と息子の感想です。


いろんなとこからたくさん元気をもらったんで、まだまだBOPやるぜー!

2011年4月11日 片付け作業手伝う

11日〜13日まで陸前高田市、本称寺にて東京、能登、高岡、三条、奥羽各教区の方々の多大なるご協力を頂きながら、気仙組内若手、仙台仏青有志による建物跡地の片付けという作業をいたしました。


今回の津波により、本称寺の本堂、庫裏は全壊し、その屋根は推定50メートル以上後方の瓦礫の山にかすかに姿を確認することができるという状況でした。この状況において、果たして捜索活動をしたところでどのような成果が見られるかは正直未知数なところはありましたが、まずやらなければ先には進まないであろうというのが参加者、そして関係者の総意でもありました。


3日間の懸命の作業により、本堂、庫裏の裏手地中深くから鐘楼や梵鐘、輪灯や仏器などが見つかりましたが、捜索は困難を極め、2日目終了時にはもうこれ以上は厳しいのではという雰囲気が漂いました。


しかし最終日の午前、庫裏の裏手にある高田小学校の海水と泥が入り混じったプールの中から鶴亀が見つかり、瓦礫の中から絵像の御本尊を見つけることができました。最後まであきらめなくてよかったと思えた瞬間でした。残念ながら本堂の御本尊、過去帳等を見つけることは出来ませんでしたが、私達の予想をはるかに超える成果であったと思います。特に仏具に関しては災害後1ケ月が経過したにも関わらず、かなり状態は良好でした。


高田は平地がほぼ全て壊滅し、7万本あった松林が1本を除いて全て無くなってしまったため、防風になるものがなく、あちこちから舞う強い砂埃の中で、また決して精神的にも体力的にも楽ではない環境の作業という厳しい3日間でしたが、全国各地から協力いただいたみなさんのお力があったからこそできたことだと思います。私達だけの力では到底無理でした。本当に深く感謝申しあげます。


工事関係者の話では金曜ぐらいから本称寺付近にも重機が入るとのことでしたが、あくまで細心の注意を払うとのことでしたので、また今後の活動は推移を見ながらということになるであろうと思います。


最後に。本称寺の山号は「海詠山」という山号ですが、河口から2キロ以上離れているため、実際には海を望めるようなところではありませんでした。しかし、高田の市街地が壊滅し、海岸線も500メートル近くは入り込んできたため、今、高田小学校から見えるはずのなかった海が見えています。今までの人生で一番悲しい海の景色でした。この景色を忘れることはないと思います。

2011年4月8日 余震

昨夜11時32分に大きな地震があり、停電、ガスの供給ストップなどになりました。


仙台市内でも通電地区と停電地区があり、東北別院も含め仙台駅東口は今朝8時半頃に電気が復旧。

現在は信号機も電気が通った様で、交通も秩序が戻りつつあります。


昨晩はマンションに居れなくて車の中、公園や学校の校庭でで夜を明かす人、数時間いて家に戻る人など様々でした。


教区内の情報は現在把握できていません。

2011年4月7日 こどもと遊ぶ

4月7日子どもたちと遊びに六郷中学校へ


仏青バッジマシーンと手作り念珠とお菓子を持って六郷中学校へ行ってきました


ここでは今でも400名を越える人が避難しているそうです。


校庭にはいると自衛隊が活動しており支援があることがわかりました


結局、子どもたち8人ほどと念珠を作ったり、ドッジボールしたり、サッカーしたりして遊んできました


そんなこんなで解散雰囲気になったので避難所の体育館に小学3年生の男の子と帰る途中での話


自分「自宅には帰らないの?(自宅から遊びに来てる子どももいるそうなんで)」

彼「家は津波で浸水して住めないんだ。今は避難所に住んでいるんだよ。」

自「そっか・・・」

彼「でも家の瓦は一枚も落ちなかったんだよ。そこが唯一ホメられたとこだよ。」

自「そうなんだ。」

彼「外側も大丈夫だったし瓦も落ちてないから、外から見ると何でもないように見えるんだよ。だから金槌で瓦割って落としたんだ。」

自「えっ、ホント?」

彼「ウソ(笑)でも家族会議でその事は話したんだよ。」

何て返事をしたらいいか分かりませんでした。何故唯一ホメられた、無事だった瓦を故意に壊そうとしたかは分かりません。瓦が無事って聞いたときには内心よかったねって思ってたんですがそうではないことを知りました。何故かは聞けなかったけど何となく理由が分かる気がしました。

笑顔でその事を話してくれる彼を見ると悲しくてやるせなくてたまりませんでした。


避難所を出て住むアパートが決まったという女の子、まだ決まらずに不安そうな女の子、飼い犬が一匹亡くなったと当時の様子を話してくれた女の子


話せば話すほどその想いを語ってくれます

悲しいこと寂しいこと笑ったこと嬉しかったこと、一人一人が現実に向き合ってるのかもしれません


そういえば、新しく住むアパートが決まった女の子の部屋がペット禁止らしいです。内緒で犬を飼うらしいですけど一日でも長くバレなければいいのになぁと思いました。

2011年4月7日 救援物資を持って仙台市内に行く

4月6日

折り紙とお菓子を持って宮城県仙台市内の避難所に。

仙台市内。福島県から避難してきた人の集まっている避難所は以前よりも減って30人になっていました。

玄関は崩れる怖れがあるため、裏口へまわって中へ。

子どもは9人。この日こども向けの団体が来る予定があり、折り紙はことわられちゃったけど、事前に段ボールから袋に詰めなおしたお菓子の詰め合わせを渡したら喜ばれました。

視察の人たちの話によると、ここは環境がいいそうです。

その後、津波被害の目と鼻の先にある若林区の避難所へ。

体育館や武道館が避難場所になっていて、たくさんの人がいるため、子どもたちは校舎の三階の部屋を借りて、遊び場にしています。

いろいろな遊びをして過ごしている様で、数珠作りは目先が変わってか大人気。

楽しく遊んでくれたけど、子どもたちとの会話の中でこぼれる「家なくなっちゃったんだ」という言葉が重く、せつないです。

明日もまた遊びに来るね。

2011年4月7日 福島いわき市の状態

中々全体像は把握できませんが、わかる範囲で報告します。


ガソリンは、休みの所もあるが、ほぼ通常通りいれられる。


一時、原発の影響で物流が止まり、避難所を含め、市内の店にも、物が入らない時期はあったが、報道のおかげか一気に物が届き、スーパー等も品揃えが、だいぶ復活してきて買えるように。


幼稚園では、双葉など原発避難圏内の子供が転園してきて人が増えるから、いわきから一時避難している人は、始業式に戻らないと、退園させられるとのこと。その為に、まだ不安は残るのにいわきに子供連れて帰らないといけない、という状況もあるよう。


町で見かける人の八割くらいは、マスクをしてる印象。


ボランティアセンターは、出来ているが、ボランティアの受け入れは、原則いわき市民とのこと。

市外の人は、基本的に各自の判断で支援活動しているようです。

2011年4月6日 連携深まる

仙台仏青のメンバーは、仙台教学研究所(教研)と重複している人が殆どです。

教研メンバーとも連携して活動に励んでいます。


教研メンバーの住職さんよりおもちゃ、スケッチブック、色鉛筆、折り紙、大量のお菓子などをいただく。

「子供達に大きなプレゼント。」


また住職さん。なな・なんとドラム缶2缶も用意してくれました。凄い。

「仏青メンバーに大きなプレゼント。」


これでBOPは三号機を動かせる事になる。

岩手班と宮城班の体制で活動できるかも。三台同時の行動は人数の調整しながら進めていこうかと。


また新たに、炊き出しの可能性も出てきました。

仙台教務所との連携で話が進みそうです。只今、調整中。


仙台教区内には沢山の宗派の有志から連絡あり、続々と人数が増えてきています。

「感謝。感謝。」


今後、炊き出しやBOPも活動範囲が増えそうです。

2011年4月5日 福島県いわき市に帰る

法務の為に久しぶりに福島県のいわきに戻ったので、避難所や、沿岸部の被害を見て回ることに。


以前に比べ、車の数、活動してる人の数は目に見えて増えている。


飲食店も少しずつだが、再開しているみたい。ガソリンはまだ多少並ぶよう。


途中、立ち寄った本屋では3月11日以降の本、雑誌は一切置いてなかった。



沿岸部では、依然として遺体の収集作業が続けられていた。他の津波被害の場所に比べて内陸部までは、被害が及ばなかったように見える。

それでも、見知った道が、景色が消えたのを見るのは堪える。



立ち寄った避難所では、お風呂に入れてないようだが、物資は十分あるとのことで一安心。


一番、気になっていた原発の影響を感じるため、少し足を伸ばして、30km圏内へと向かう。

先ほどの避難所から、五分もしないで圏内へ。通行規制も何もなく、ただぱったりと人影が消える。

道路沿いの家屋には、人の気配もなく避難しているように見える。


そのまま少し走り続けると、電工掲示板には「半径20km圏内立ち入り禁止危険」の文字が踊る。

道路が封鎖され、パトカーには防護服を着た警官。

少し話を聞こうと近づくと、緊急車両の登録をしていた為、思いがけず中へ通されてしまう。

さすがに、マスクだけで中の状況を見に行くわけにもいかず、少し進んでUターンする。

完全防護した自衛隊が作業している姿が見える。



自衛隊が、完全防護しなければならない場所から10分もしない場所に、200人以上が避難している。


ただちに健康に影響を与える値ではない、と言われても規制圏内の異常さを見てしまうと、そこからほとんど変わらない距離に避難している、普通に生活していることに違和感を覚えざるを得ない。


水素爆発が起きた時、マスクや帽子で防備して、自主避難していた人達が、少しずつ街に帰ってくる。

街が再生していくのは嬉しいが、事態が終息したから、状況が好転したから、帰ってきた訳ではない。

避難生活に疲れ、放射能という言葉に慣れ、麻痺して、うやむやのまま現状を受け入れた結果なのではないかと思う。


放射能は、見えないからよくわからないし怖いと言うが、見えないことの本当の恐ろしさは、何事もないかのように生活が送れることだと思う。



大人たちはまだいい、でも子供たちには見えないリスクを負って欲しくないと、切に思う。


生まれた土地が、深呼吸するのもためらわれる、そんな場所になっていることが、とてもとても悲しい。

2011年4月5日 救援物資届く


三陽教区(岡山)から救援物資が届いた。

水用のポリタンクにゴム手袋にガスボンベ。

嬉しいです。感謝。感謝。

直接お会いすることが出来なっかた。・・・教務職員が教えてくれた。「皆疲れ切った顔でした。」「きっと余り休まずに遠い仙台まで、急いで運んでくれたのでしょう。」

改めて繋がりの中で生きていると実感。


大切に有効に使わせていただきます。

これで、BOPの動きもだいぶ楽になるだろう。

次回にむけて本日は準備中。


ここで終わりではありません。


仏青メンバーはメインでBOP活動ですが、あいてる時間は救援物資を運んでいます。昨日あたりから被災地から生活物資が足りないと連絡が入るようになってきた。

トイレのにおい消し、お部屋のにおい消し、子供のおやつ、日持ちする野菜、おかずになる缶詰などets.


細かいリクエストです。

少しであるが、「生活」を取り戻せてる感じです。


でも、所変われば「需要」は変わる。難しい現実。


小さな情報をキャッチしてメンバーは動いています。


まだまだ終わりの見えない活動。でもがんばります。

2011年4月4日 宮城県亘理町で子供達とあそぶ

今日は、宮城県南の亘理町に仲間が避難しているので、会いに行きがてら、亘理町の避難所を回り、情報収集をしてきました!


情報収集だけのつもりでしたが、避難所には小さいお子さんが結構いたので、せっかくなので一緒に遊ぶことにっ!


同行していた仲間の折り紙が絶大な威力を発揮して、みんなで折り紙と念珠作りをして過ごしました。子供たちも大興奮で、喜んだみたいで良かった。


帰り道には、知り合いのお寺で物資を積み込み仙台へ。

行政だけには任せられないと、自分で考え、様々な形で動いている人達が沢山います。

現地に行かなくても、それぞれの活躍の場で被災地へと想いを致してくれる仲間が沢山います。

現地では、そんな想いをひしひしと感じます。

2011年4月2日 宮城県気仙沼にて新たな出会い

朝、五時過ぎに起床。

こんな早起きの日は、BOPなのです。


今回は、事前に電話でやりとりすることが出来たので、前日に欲しい物資を聞き取り、大量に準備して現地へ向かうことに。

今回は、以前ドラム缶風呂の活動した、気仙沼市本吉町、大谷地区にある別の避難所、

仙翁寺が目的地。


途中、事前交渉済みの給水所で大量に給水するため気仙沼市街地へ。

すぐ近くが被害の酷い地域だったので、少し見て回ることに。

中洲のようになっている地域が、全て瓦礫の山になっていた。

瓦礫の中を歩いているおばあちゃんに声をかけると、震災後はじめて自宅を見に行くという。話を伺いながら、自宅のあった場所へとご一緒させてもらう。景色のあまりの変化に、「ここには、信号機があった。友達の家はあの辺りだ。」混乱してる様子で、次々と言葉が続く。そして自分の家があったハズの場所へ。ここだ、と確信が持てない。30年以上住み続けた家が、跡形も無く、見覚えのない車や鉄骨の山になっていた。「写真だけでも見つけたい」そう言って瓦礫に踏み入るおばあちゃんに別れを告げ、再び目的地へ向かった。



仙翁寺は、270人程が避難しており、そのほとんどが津波により家を無くして帰れない長期避難者である。

今回は、規模の大きな避難所ということで、

初の試みである「BOP初号機」「BOP二号機」を両方稼働させることに挑戦。

想定外の強風に苦慮し続けたものの、なんとか成立させることが出来た。


規模の大きな避難所ということもあってか、北海道おしゃまんべの商工会の皆さんが炊き出しに同時刻来られていた。その中の一人が私に「どこかの仏教会の方ですか?」と聞いてきたので、「真宗大谷派の仏教青年会です」と答えると、なんとその方も、大谷派の僧侶でした。北海道教区第一組の三浦さん、設営のお手伝いのみならず、美味しい焼きそばに蟹汁、私達までご馳走になり、ありがとうございました!


というわけで、今回はドラム缶風呂には子供たち、完全密閉式のバスタブ風呂には、主に大人、という形で沢山の人に利用して頂きました!




クタクタになるまで走り回り、肩車して、チャンバラでお尻をしこたま叩かれ、好きな娘の話を聞き、山に向かって一緒に叫び、携帯番号も交換した。


その一部始終、みんなずっと笑顔のままだった。震災で沢山の悲しみが生まれ、今も尚、深い悲しみの中におられる方が沢山存在する。

ただ、今日私が出会った子供たちは、みんなとびっきりの笑顔だった。みんな被害がなかったわけじゃない。おこずかいを貯めて買った服をなくし、大切にしてたギターをなくし、三回しか遊んでないWiiをなくし、思い出のユニフォームをなくし、好きだった子は震災で転校し、親は職を失い、友達との想い出が、生まれてからずっと住んできた家が流された。勿論、次の住みかも決まってない。それだけの現実を背負ってなお、本当に明るく、笑顔で生きている。


(たぶん)慕ってくれて片付けまで手伝ってくれた思春期全開の少年たち、無邪気に遊ぶ小学生たち、トゲのある言葉で大人を傷つける女子たち、その全てが、可愛くて可愛くて、愛しくて愛しくて堪らなかった。



私自身、避難生活をしており自覚はないけれど、被災者になるのだろう。

それでも、支援活動のつもりで物資を届け、お風呂を作ってきた。


だけど、なんのことはない、支援されていたのは、私でした。


震災に直面し、目を覆いたくなるような現実にうつむいていた私に、前を向かせてくれたのは、彼らの笑顔なんだと今は確信しています。

本当に、本当に元気と希望をもらいました。


そして、本当に楽しい時間でした。



きっとまた会いに行きます

2011年4月2日 女性スタッフも入り、活動行動広まる。

今回は、東北道一関ICから現地に向かいます。途中、給水場に寄って、宮城県気仙沼市地域に入り活動する予定です。


本日のメンバー。仙台3名、千葉と三条の2名、山形からトラック持ち込み(感謝)と1名の計5名

水500リットルタンク一つと、20リットルタンク10個、それとお風呂(二号機)、持っていきます。


仙台教区岩手県チームも7名(2名女性)参戦。

ドラム缶風呂や物資を持って現地へ。


大所帯です。


今回から女性スタッフも参加。(頼もしいです)

女の子やおばちゃんの時にも湯加減を調節できそう。


徐々にであるが、活動内容が広がってきました。

他県からの有志は本当に助かります。


詳細は後日報告します。


尚、ボランティアに参加しているメンバーは災害保険に加入しております。

何分、まだ危険な場所がたくさんありますから 、参加される方は仙台教務所までご相談ください。

2011年4月1日 活動範囲広まる

次のBOP開催場所のリサーチを進め、無事に決定。

200人規模で、子供に限らず大人も入りたいとの要望に応える為に、ドラム缶だけでなく二号機も合わせて稼働させたいところ。

ところが、ここで問題が一つ。バスタブに水も運ぶとなると、輸送手段が現時点で無い。

急遽近県の仲間たちに相談。

農家の皆さんも、忙しく軽トラが借りにくいこの時期に、しかも急な話でかなり無理なお願いだと、自覚していたのですが、仲間の1人が色々と奔走してくれ、無事に軽トラを確保。 自分の予定にも都合をつけてくれ、今晩山形の有志が軽トラでBOPを手伝いに来てくれることに!

「大して無理してない」とおっしゃられていたが、きっと色々と無理されたんだと思う。本当に助かります、感謝感謝。



空いた時間には、子供御遠忌で持っていくバッジ作成もしてます。私のデザインしたのもあるから、皆さんも是非どうぞっ!


というわけで、明日は、気仙沼にBOPってきます!